コラム140:Control your destiny, or someone else will

 日本人初のF1ドライバーである中島悟に「交通危機管理術」(新潮社。絶版)という本がある。この本を読んで今でも実践していることがある。それは、交差点の赤信号で停まる時に、バックミラーで後ろを見ること、車の前に一台分のスペースを空けること。道路というのは、車が高速で通過する場所である。生身の人間がその中に立ち止まるなどということは普通考えられないだろう。赤信号で停まるということは、そのようなリスキーな空間に立ち止まることに等しい。もちろん、車という金属製の箱に守られているが、それでもけがは免れない。友人にも、それで競技生活を棒に振った人がいる。リスキーな行為をする以上、最悪のことを想定し、それに対するコントロール性を維持するべきだ。中島の主張はそこにある。

 

 生身の人間であればなおさらである。先日僕の研究についてインタビューに来た学生に、「君たちは青信号の時に左右を見てから渡る?」と聞いたらきょとんとしていた。説明して得た答えはnoだった。道路を渡るということは自動車がびゅんびゅん走るリスキーな空間に身を置くことでもある。青信号という制度、そして青信号を守るという倫理観によってかろうじて一時的に安全が確保された空間である。左右を見ずに道路を渡るのは、制度や他者の倫理観に自分の運命を委ねるに等しい。現代社会において、自分の命を委ねるほど他者の倫理観は信頼できるものだろうか?と問うと、ようやく納得していた。

 

 今、社会の安全はかつてないほどに高められている。本学でも、昨年夏に近くの高松海岸で3名が高波にさらわれ(と推測されている)死亡した事件を受けて、入学式で海岸の危険について講話を受け、しかもその海岸は立入禁止になっている。高松海岸に関しては、本学の学生はこの事件が風化しても死ぬことはないだろう。制度化されたからだ。もちろんそれ自体は望ましいことだが、その安全は外部によって守られたものだ。村上陽一郎の議論にならって、私はこれを「安全機能の外化」と呼んでいる。安全機能が外化されれば、安全がどうやって守られているかが不可視になる。さきほどの学生も、「制度と倫理観が君たちの安全を保証している」と言われるまでそれに気付かなかった。

 

 安全機能が外化によって高められることの弊害はこんなところにある。もし安全性が何によって高まっているかを知らなければ、当然逆、つまり安全性が低下する事態への感受性も低くなる。それはとりもなおさず、リスク増大への要因に人が鈍感になることでもある。山岳遭難増加の要因の一つに、それがあるのではないかと思う。

 

 もちろん、処方箋もある。さきほどの学生も「制度と倫理観が君たちの安全を保証している」と言われ納得した。「こう説明を受けたら、道路を渡る時、左右を見ようと思うよね」と問うと、うなずいた。もちろん生への高い動機付けがないとその行動を継続することはできないかもしれないが、少なくともこのことを知らなければ、動機づけさえ起こらないだろう。私が安全教育において認知心理学的アプローチに拘る理由もそこにある。

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