災害で逃げ遅れた人がでる度にマスメディアに登場する言葉が「正常性バイアス」や「楽観主義バイアス」とう言葉だ。
曰く、「正常性(楽観主義)バイアスのために逃げ遅れた」。あまりによく使われているので、ああ、そうなんだな、と漫然と思ってしまいやすい。
楽観主義バイアスには、それを実証するオリジナルの研究がある。平均的な同じような属性の人(大学生が研究協力者であれば大学生一般)と比較して、自分がどの程度そのようなリスクに陥る可能性があるかを聞き、「その全体平均がゼロより小さい」ことで、「全体に楽観視がある」と結論づけている。しかし、心理学で重要な雑誌の一つであるPsychological Reviewに2011年に掲載されたHarris & Hahnの論考によれば、正確に自己認知が出来ている集団でも一見楽観主義バイアスに見える結果が得られる。
たとえば、5%が掛かる病気に(たとえばがん)になるかならないかを判断する課題を考えてみよう。5%が罹患するから、正確に自己認知ができている集団では95%が自分ががんになる可能性を0%と認知する。一方5%の人は100%と認知する(個人にとって、ある病気は結局なるかならないかどちらか)。オリジナルの研究は、自分と平均値を比較し、それを-3から3の7件法で答えさせる。-3なら、平均より自分がなる確率はかなり低く、3なら平均より自分がなる確率はかなり高い。正確に自己認知ができている集団では95%の人は-1を選択する(0%は5%よりちょっと低い)。一方5%の人は+3を選択する(100%は5%よりかなり高い)。この時、回答者の回答平均値は-0.8となるそうだ。完全に自己認知ができている集団のはずなのに、0.1%の有意水準で「楽観的バイアス」という結果になる。
彼らの論考は正常性バイアスについては、考慮していないが、正常性バイアスも「大事故になるような状況で対応行動を取らなかった」という事態を指していると考えれば、同じような測定上の仕組みに作られた結果の可能性がある。たとえば、遭難の発生数はだいたい登山1万回に1回程度で発生するが、ヒヤリハットは1万回に2500回(つまり25%くらい発生する。もちろん、対応したからこそヒヤリハットで済んだものもあるだろうが、多くは「たいしたことにはならない」。正確に自己認識できている集団でも、たいしたことにならない、が大多数になる。
もちろん、「だから対応しなくてよい」と言いたいのではなく、そのような行動を「正常性バイアスのせいだ」ということは何も説明しないどころか、真の解決法を隠してしまう危険性があるということを指摘したい(これについては、最近読んだ「認知バイアス」(鈴木宏明)が「認知バイアス」バイアスという、我が意を得たりのネーミングを与えていた。
毎年恒例の山と渓谷9月号の遭難対応号で「遭難と心の話」の監修の相談があった時にも、まず解説を求められたのが「正常性バイアス」だったが、「正常性バイアスを撲滅しよう」と話したところ、編集者もライターさんも理解してた。2pなので、内容的にはやや物足りないが、これまでとはひと味違う「遭難心理」の話に仕上がったと思う。山と渓谷最新号(9月号)掲載、ぜひご一読ください!