コラム バックナンバー 101-120

2016年

3月

28日

コラム120:見えていない世界

 3月15日、世界最強棋士とグーグル・ディープマインド社の人工知能「アルファ碁」の対決は、アルファ碁の4勝1敗で幕を閉じた。1997年に 人工知能ディープブルーがチェスで世界チャンピオンガスパロフを打ち破った時には衝撃とともに受け入れられた。今ではもっと手数の多い将棋でさえ、トップ棋士と同等の力を持っているので、ニュース自体にそれほどの衝撃は感じられなかった。それ以上に目立つのは、囲碁界(あるいはトップ棋士)が、この敗戦をかなり前向きかつ建設的にとらえていることだ。

 

 李棋士は対局後の会見で「まだ人間が十分に相対できるレベルだと思う」と評価した後で、「アルファ碁を見ていると人間の打つ手がすべて正しいのか疑問に思った」とも述べている。TVで見た日本の棋士も、「これまで悪手だと思っていた手が意外とそうでもない」と感想を述べ、ポジティブにとらえれば(人間の)囲碁の世界もまだ広がる可能性がある、と結んでいた。駒が擬人的に相手の王を仕留めるチェスや将棋に比べて、陣取りだという囲碁の特性が大きいのかもしれない。

 

 一方で、人工知能自体を擬人化するコメントも興味深い。「(人間とは)見えているものが違う」「どう考えているか話せるものならば聞いてみたいし、もっと対局を見たい、囲碁の神髄に近づけるかもしれない。」伝統の中で棋士たちは実力を高めあってきた。その背後には定石などの共通の知識と文化がある。一方で、棋士とは違う学習をしてきた人工知能には、同じ盤面を見ているはずなのに、違うものが見えている。その違いが何に由来するのか、またその違いが何を生み出すのかを知ることは、一つの文化の中で成熟した状況からブレークスルーする大きな契機になるのだろう。

 

 3月半ばに、ナヴィゲーションの練習の一環として、「ガンダム・オリエンテーリング」を試してみた。これは、一人がモビルスーツ役、一人がアムロ(あるいはセイラか)役となる二人組のオリエンテーリングだ。ナヴィゲーション版二人羽織というと分かりやすいだろうか。アムロが地図を読み進路をガンダムに伝える。一方でガンダムはコンパスを使ってアムロの指示通りに移動する。「あそこの」「あの白い建物」といった指示語は御法度である。最初は、うまく情報が伝えられなかったり、情報を伝えすぎてガンダムが混乱したりする。読めたつもりになった地図情報を人に伝えようとすると、改めてその曖昧さが露呈する。実態として見えていない世界があるのだ。方向にしても、15度右に、というと、ガンダムは自分の感覚では25度 くらい右を向いたりする。わかりきった言葉を使っているように思っても、同じ言葉が意味するものも違うことを痛烈に感じることのできる体験だった。

 

 参加者の感想を聞くと、それを通して、どのように世界を見ることが有効なのか、を感じることのできた練習だった、あるいは仕事にもつながるスキルですね、という人もいた。囲碁棋士や人工知能の対決とはレベルは違いこそすれ、違う見方を学ぶことが、スキルを高める契機になることだろう。

2016年

3月

16日

コラム119:後悔

 冬山に入る準備で、静岡の登山用品店に出かけた。店長さんは顔見知りで、レジを打ってもらいながらしばし歓談していると、「こんなところでなんですけれど・・・」と言って、「山のリスクと向き合うために」を出してきて、サインを求められた。こういうプロフェッショナルの方に読んでもらえるのは嬉しい限りだ。話は内容のことになる。

 この本の冒頭は西穂高で遭難した私の友人の話で始まる。冬山としては初級の山である西穂高に登った知人はルートを少し踏み外したのか、150m滑落し、骨折。その時点で命に別状はないはずだった。だが、悪天候の中救助が得られる、二日 後に心肺停止状態で発見された。外交的な彼女は、しばしばその店に来ては、「Mさ~ん」といって、店長さんと山についてのおしゃべりを交わしたとのことだった。遭難した年にもアイゼンをその店で購入した。「あの時、もうちょっと止め具を強く締めるよう教えてあげれば、彼女は遭難しなかったかもしれない、って思う時があるんですよ。」と彼は言う。遭難には多くの原因があるのだから、遭難が誰の責任という訳でもない。そう言っても、彼にとっては慰めにはならない。

 心理学の研究に後悔の持続に関する研究がある。それによれば、しない後悔はした後悔よりも長く続く。遭難者に関わった人の多くが「しなかった後悔」を胸に抱くが、その後悔はなかなか癒えない。

 昨年12月に大雪山で遭難した谷口けいさんを偲ぶ会が、3月13日に行われた。彼女の遭難について、彼女ほどのクライマーがなぜ休憩時にミスを犯して滑落したのかについての疑問をFBに書いたところ、日本でも指導的にあるガイドの方が、「実は同行した他の男性クライマーには注意を促したのだ。なぜ、本人(谷口さん)にも直接言わなかったのか、後悔している」というコメントをもらった。些細な兆候は常に事故につながるわけではない。本人の主体性、人間関係など、注意すれば発生するであろうマイナスと確率的には非常に低い遭難のリスクを天秤にかけて人はリスク対処を躊躇す る。それが「しなかった後悔」をもたらす。

 死んでしまった遭難者自身が後悔に苛まれることはない。だが、周囲の人には長い後悔の時間が残される。

2016年

2月

26日

コラム118:組み体操

 恐れていたことが起こった。そう書くと、とうとう死亡者が出たのか、と感じる人もいるかもしれない。小学校から中学校の運動会で、組み体操は花形種目らしい。成功させるには、ハードな練習をしなければならない、恐怖にも打ち勝たなければならない。痛かったりつらかったりすることをみんなが我慢しなければなしえないパフォーマンスだ。だから子どもは達成感を得られるし、保護者も感動する。

 一方で、N段ができればN+1段に挑戦してみたいと思うのが人の常だ。未知の領域に挑んでこその感動だ。最近では10段、11段のピラミッドに挑む学校もあるという。10段でも軽く5mは越えているだろう。途中でもし下段の生徒が耐えられなくなったらピラミッドは瓦解する。そのさい無視できないけがが発生しており、医療機関に通う事故だけでも、年間2000件程度が発生しているという。指導技術が高ければより安全にできるという指導者もいる。だが、これに真っ向から異を唱えているのが名古屋大学の教育社会学者の内田良氏である。内田氏は、労働上の安全基準では2mを越えたら転落防止の方策をとらなければならないのに、教育現場で5m以上で生身で活動することが許されるのはなぜだろう、と問う。そしてその背後には感動の陰にリスクを見逃す教育の風土があると指摘する。

 私が問題だと感じている出来事は、流山市教育委員会が全国に先駆けて市内の学校にすべての組み体操のとりやめを決めたことだ。より正確にいえば、このこと自体が恐ろしいことなのではなく、このことがその背後にある恐ろしいことを顕在化してくれたことだ。それと同時に、組み体操の全面禁止自体も恐しいリスクを将来に残しかねない。なぜこれが恐れるできごとなのだろう。少し解説がいるだろう。

 私も組み体操が危険を内包する種目であることに異論はない。内田氏が主張するように人間の背の高さを超える高さでは何かあった時生徒の動きを教員がコントロールできない。生徒が好むと好まざるとに関わらずそのようなリスクに晒されることにももちろん反対である。だが、そこには「リスクが高く、なおかつ制御不能である」という判断基準がある。今回の流山市の取り決めは、一律にすべての組み体操を、というものだ。一律にすべてとした時点で、リスクの評価と評価に応じた対応という、リスクに対して一番大事な部分が忘れ去られる。これまでも組み体操に不安を感じた生徒も保護者も、さらには教員もいたことだろう。現場のリスク感覚を元に意思決定することができず、リスクとは切り離された意思決定でしかリスクに対処することができなかった。今回の流山市の決定は端的にそのことを示している。 そして、全面禁止にすれば、その体質はますます陰に隠れる。学校現場で、オンサイトで感じられるリスク感覚に頼れずのリスクに対する意思 決定が行われるとしたら、現場のリスク感覚はますます鈍いものになってしまうだろう。子どもも教員も、そんなことで将来にわたって身に降りかかるリスクから自分を守っていけるのだろうか。

 内田氏の主張の背後には、目の前にある感動に目を奪われ(必ずしもいつも発生するとは限らない)将来の損害を正確に評価できていないことへの問題意識がある。教育委員会の対応は、目の前のリスク(こどものあらゆるけが、これだけ騒がれている中で事故が起こることによる教委への批判)に目を奪われるあまり、教員や子どもたちの将来のリスク対処能力への弊害に目をつぶったというと いう点で、根底にある問題は何も解決していない。

 一律の全面禁止は、むしろ問題解決を遠ざけてしまう、と私には思える。

2016年

2月

12日

コラム117:通俗心理学の罠

ヤマケイの2016年2月号は「山の遭難」特集。話題の端境期となる2月号によく掲載される定番特集である。遭難のレポートは多くの人が興味を持つし、「教訓」はお勉強感がある。しかし、内容の練りという点ではまだまだ物足りない。

 

 今回の3本柱は、「体力不足」「道迷い」「楽観主義」である。体力不足は遠因としての持久力不足、転倒の直接原因だと思われる筋力/平衡力が要因としての比重が大きい。今回の特集では、原因分析から克服のためのトレーニング法までかなり具体的に示されているのは、評価ポイントだが、一方で特に直接の原因となっている筋力/平衡力が全体の中に埋もれてしまっているのが、残念。

 

 体力不足と道迷いは具体的なスキルと直結するので、分析、教訓、そして対処法、いずれも明確だ。一方、楽観主義はどちらにも影響し、単独の要因ではないことは編集段階から指摘したのだが、結局この3本柱になってしまった。問題は多いのだが、読者が「なるほど」と思って(そして学んだ気になって)読んでくれるからだろう。そこに俗流心理学が入り込む隙間が生まれる。

 

 この項に登場する「楽観主義」あるいは「正常性バイアス」、これが正直気にくわない。もともと災害やリスクに関係する考え方が現実とは乖離してしまっていることを指す心理学概念だが、これらの領域も含めて、安易に使われている。一人一人のスキルや登る山によってリスクが異なるのだから、ある人の「安全だ」という判断をとって、「楽観主義バイアスが働いている」とは言い切れない。事故にあったのだから異常な場にいたはずであって、そこで事故防止の手を打たなかったのだからそれは「バイアスでしょ」ということなのだが、むしろそれは「後付けバイアス」と名前がついている。後から考えればなんでも言える、という訳だ。

 

 正常性バイアスについてはこんな説明がある「異常事態でも正常の範囲と誤認し、対応や判断を誤る心理的傾向」。この説明自体は間違っていない。しかし、そこには「異常」は必ずわかるという(誤った)信念がほの見える。リスクはそもそも確率的な概念であり、だからこそ避けることが難しいのだ。そして確率的概念であるとは、制御できないなんらかの要因が働いてリスクが顕在化して事故やトラブルになることを意味している。つまり「異常事態がわかるはず」という考え方自体がリスクとは対局にある考え方である。「ある時点では異常か正常かがわからない」から、結果としての損害は確率的に発生し、だからこそ「リスク」と呼ばれるのである。

 

 正常性バイアスも楽観主義バイアスも「だから事故につながった」という説明的な言い方をよくされるが、そうではなくて、記述的な概念なのである。つまり「客観的に見れば異常へのシナリオの兆候である事態に対して、正常範囲内のシナリオであると見なす」ことを正常性バイアスと呼んでいるのであって、どうして正常と見なすのかという原因を説明しているわけではない。そこで「だから事故につながった」と考えたら、それこそ思考停止に陥ったことになる。

 

 個人的な経験事象において、リスクをどう定義するか、またリスクを人がどう見ているか、どう見ることがリスクによる損害の顕在化を抑制するかは、山の危険とその防止法を考える上では重要なステップになるはずなのだが、研究の世界ですら十分にそれができているわけではない。遭難減少に向けて、避けて通れないハードルである。 

2015年

8月

11日

コラム116:古地図で蘇る東京

 3年ほど前、TBS開局60周年記念の超大作時代劇「仁」が放映された。現代の敏腕外科医が江戸末期にタイムスリップし、満足な医療機器もない中、懸命に市井の人々を救おうと苦悩するドラマだ。タイトルロールでは、現代の東京に明治初期(つまりはほとんど江戸期だ)の東京の写真がオーバーラップし、現代の東京からは想像もつかない質素な町並みとのどかな風景が映し出される。江戸は世界有数の田園都市とされているが、明治初期にもその面影は色濃く残っている。東京の過去へのノスタルジアを満たしてくれるイベント、それが「ロゲイニングイベント今昔物語」であった。昨年も世田谷で開催されたが、今年は大田区を中心とする城南地区で行われた。


 このイベントは野川のカルガモのおとうさんこと後閑茂弘氏がオーガナイズしている。なにが「今昔」かというと、今の東京を昔の地図を使って走ろうというイベントだからだ。クラスは二つ。一般クラスと地図ヲタククラスである。地図ヲタククラスに配られるのは大正初期の地形図である。大正時代のこの地区は、一部の鉄道こそ走っているが、景観はほとんど江戸末期そのままだ。その地図に記されたポイントを巡るロゲイニングなのだ。


 地図を見た多くの参加者が唖然とする。それはそうだ。建物も街路も今とは全く違うのだから。「いったい、こんな地図で目的地にたどり着けるのか?」。確かに、現代の地図は一面の市街地なのに対して、当時の地図ではのどかな田園風景が広がっている。建物はもちろん全く違う。だが、当時の地図を見ると集落がなぜそこに立地したかが分かる。谷底を避けた微高地に集落が広がっているのだ。集落の中心だろう位置に駐在所が設置され、それが今に残っている。よく見ると、屈曲した道路には当時の名残が残っている。現代の地形図では無数の道路に埋もれて見えないものが、当時の地図ではクリアに見え、またそれを現地で確認することができる。


 極めつけは地形だ。現代の地図からは読み取れない地形が、当時のシンプルな地図からは容易に読み取ることができる。あるいは当時の地形図にも等高線では表現されていない微高地が、土地利用や集落の立地から読み取ることができる。そして、それらの地形のほとんどが、現在でもこの地域には残っている。


 大正期の地形図から地形を読み取る。ナヴィゲーションのために、参加者はその地形を風景の中に読み取ろうとする。もちろん、そこには家屋やビルが密集していて、その下にある大地を直接見ることはできない。だが坂があれば、そこに尾根や段丘があることが分かる。あるいは暗渠は緑道や独特の線形を持った道路からその存在を知ることができるが、それは昔の河川を読み取ることに他ならない。河川があれば、そこには谷があったはずだ。大正の地形を現代の景観から読み取ることができるのだ。


 地形を手がかりにナヴィゲーションをするうちに、いつしか参加者の目はかつての東京の地形をビルの背後に読み取り、そして当時の地図から読み取った景観が目の前の風景に融合していく。ナヴィゲーションという媒介によって、比喩以上に私たちは当時の東京にタイムスリップしていく。「都内 なのにトレランしたみたいな気分になった」と感想を述べた参加者もいた。これは、地形の起伏に富む東京、その地形が残る時期に作られた正確な地図、そしてナヴィゲーションスキル、この3つが揃ってこそ生まれる奇跡のタイムスリップである。


写真①

東京の市街の中に、5、6世紀に遡れる史跡が「塚」として残ってい る。かつては台地上にある緩やかな谷に面した微高地の村はずれに あったこの 塚は、今でも緩やかな坂の上にある。
東京の市街の中に、5、6世紀に遡れる史跡が「塚」として残ってい る。かつては台地上にある緩やかな谷に面した微高地の村はずれに あったこの 塚は、今でも緩やかな坂の上にある。

写真②

大正期の地図。50と書いた○が写真①の法界塚(東京時層地図 for Ipad より)
大正期の地図。50と書いた○が写真①の法界塚(東京時層地図 for Ipad より)



写真③

同じ場所の1990年代の地図。地図に往時の面影は全く感じられないが、 地形はしぶとく残っている(東京時層地図 for Ipadより)
同じ場所の1990年代の地図。地図に往時の面影は全く感じられないが、 地形はしぶとく残っている(東京時層地図 for Ipadより)

2015年

7月

13日

コラム115:階層的規律は登山隊の成功につながるか?

 軍隊のように任務が致死的で高度に目的がはっきりした組織では階層的規律が厳しいほうが、パフォーマンスが高いと思える。安全への懸念があっても、目的遂行のためには上官は部下に対して危険な任務を要求しなければならない。部下がいちいちそれに異を唱えていては、軍隊の目的は達成できない。


 では、登山隊はどうだろう。登山隊の目的も登頂という比較的はっきりしたものだ。その任務は軍隊に負けず劣らず致死的なリスクを含む。特にヒマラヤの高山を目指す登山隊ならなおさらだ。各メンバーがやれと言われたことをきちんと実行して初めて登頂の成功確率は高まる。つまり階層的規律は登山隊の成功を促進する効果があると思える。その一方で、登山の場合は致命的な危険があれば退却し、結果として隊全員を無事に連れ帰るという選択肢もある。だとしたら、平等主義的にメンバーが自由に自分の考えを言い合える組織であれば、リスクの察知や評価も確実性が高まる。また往々にして犠牲になるのは下位のメンバーだが、下位のメンバーが不安感を率直に告げることができれば、隊全体の安全にも寄与すると考えられる。この場合、階層的規律はリスクを高める方向に作用する。つまり、階層的規律は登山隊の任務遂行には相反する二つの影響を及ぼすと考えられる。


 今回紹介するのは、それを実証した研究である。研究は二つのパートからなっている。第一のパートでは、27カ国146人の熟練した登山家を対象に、仮想の登山隊についての評価をさせ た。仮想の登山隊は二つあって、Aは階層的規律が厳しい隊、Bは 平等主義的な隊であるように記述されている。ABそれぞれについて、協同がうまくいくか、心理的な安全感が得られるか、情報共有はどうかという評価をさせた。対象者はAまたはBのどちらかの一方だけの質問紙を見ているので、両方を比較することはできない。結果は、予想とおり、階層的規律の厳しい隊のほうは、協同はよりうまくいくが、心理的な安全感も情報共有も低く評価される傾向にあった。熟練した登山家たちも、階層的規律によって隊の雰囲気やパフォーマンスが変わると考えていることが分かる。


 第二のパートでは、20世紀のヒマラヤ登山における56カ国の5104隊30265人のデータベースを対象とした。隊の階層的規律の厳しさはその隊の国籍を使って定義した。これができるのは、過去の国際調査によって各国の文化特性として階層的規律の厳しさについてのデータが得られているからだ。そして、成功の指標としては登頂成功者数、また失敗の指標としては隊の死者数を使った。ただし登頂成功者は多くても、同時に死者数が多いこともありえるので、成功でないことが失敗というわけではない。成功=登頂成功者が多くても、死者も多いということもありえるし、その逆もある。


 結果の詳細は統計の細部に入るので端折るが、結果は興味深いものだった。つまり階層的規律が厳しい国(文化)から来た隊は、登頂成功者数も多いが、死者数も多かったのだ。予想したとおり、階層的規律はリスクに関して矛盾する二つの機能を持っていたのだ。しかも、この傾向は集団での登山に限られ、ソロでの登山ではこのような傾向はなかった。つまり階層的規律という文化は集団(の力学)を介して、死者数を犠牲にしての成功につながっているということだ。


 研究は最後にこう結んでいる。

「階層的規律の重視は、協同努力への確かな道筋をつけるが、同時に、それは脅威に面した時の弱者の声を消す。それによるミスを減じるためにも、階層的規律重視の中で、下位の低い構成員が自分の主張をできるような仕組みが必要だ」


 このコメントは、一般の集団登山についても貴重な教訓になろう。

 

参考文献:Anicich, E. M., Swaab, R. I., & Galinsky, A. D., (2015).  Hierarchical cultural values predict success and mortality in high-stakes teams. PNAS Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 112(5), 1338-1343.

2015年

7月

09日

コラム114:精緻な数値情報は正しい危険評価に貢献するか?

噴火警戒レベルが2に引き上げられた箱根に対して、静岡大学の火山学者小山さんが火山活動のシナリオごとの確率を計算し、公表してから1ヶ月になる。この間、警戒レベルはさらに引きあがり、レベル3になってしまった。レベル2より3が上なのは分かる。だが、その程度は適切に伝わっているのだろうか。

 

 火山噴火というと火山がいっきに爆発するイメージがあるし、それが即致死的な状況になるという印象が強いかもしれない。おそらくそれは御嶽山の噴火でさらに強化されたことだろう。だが、火山の噴火現象の全てが致死的な訳ではない。噴火にともない様々な事象が発生するが、噴火の象徴のような溶岩流は速度が遅いので、致命的なことにはなりにくい。ハワイの火山で、麓の集落に溶岩が近づいた映像が昨年流れていたが、それを見ても、住民は困ってはいてもそれほど慌てているわけではない。一方、火砕流は瞬間的に発生し、流下速度も猛烈に速い。あるいは火口近くにいれば、時速 100kmを越える噴石が襲ってくる。反面、火口からの距離があれば、噴石の落下は限られている。従って、噴火がどのようなシナリオをたどるかは、火山噴火のリスクを考える上では欠かせない情報である。

 

 小山さんの推定は、これまでの噴火史を踏まえたものだが、それによると、噴火の確率はわずか4%、しかもそのうち火砕流を伴う可能性のある水蒸気噴火は83%で、それに火砕流が伴う確率は20%である。つまり0.04×0.83×0.2の確率で破局的な状況が生まれるわけである。これは約6/1000の確率である。火砕流を伴うケースとして1%のプリニー式噴火があるが、それを加えても1/00を越えることはない。もちろん誤差はあるし、備えは必要だが、過剰な反応は不要だという数値に思える。

 

 この公表が報告された新聞記事の中で小山さんは、「箱根山の活動について、安全側と危険側の両極端な見解が報道されている。・・・確率を元にリスクを判断してもらいたい」と述べている。この考えには賛成である。回避もコストを伴う訳だから、定量的にリスクを判断しないと、回避によるコストの方が大きくなってしまう危険性もある。これは決して杞憂ではない。ニューヨーク貿易センタービルへの自爆飛行によるテロでは、乗員の死亡数は約250人だった。その後しばらくはアメリカでは自動車交通量が増加した。飛行機によるリスクを避けるためだと考えられる。それによって増加したと推定できる交通事故死者は、乗員の死亡数の約6倍に当たるという報告もある。これもあるリスクを評価することなしに回避した結果である。

 

 4年生のゼミで、主観確率がどう言語によってラベリングされるかを研究しようとしている学生がいる。そこでよく話題になるのは、本当に人は確率を適切にイメージできているのかという点だ。同等の条件の事例の全体像を想像し、その中で当該事象の発生数を予測することで可能になる確率評価 は、人間にとってかなり難しいものの一つである。それに関連して疑問に思ったことは、せっかく小山さんが詳細にシナリオ確率を出したとして、その 確率を適切なリスクの評価、そしてそれに基づく行動に結びつけることができるだろうか、ということだ。もし4%でもあるのは耐え難く危ない、と方略的に考えられてしまえば、結局確率の呈示も安全側あるいは危険側に偏った認知を生み出すだけだ。

 

 そこで、学生を対象に簡単な実験をしてみた。まずは追加情報を与えない条件で箱根の噴火確率を推定してもらった。また主観的な危険度を評価してもらった。確率も危険度の評価も広く分布し、しかも両者には関連が見られなかった。

 

 その後、小山さんのシナリオを見せて噴火確率を評価してもらった。確率の幅はだいぶさがったが、4%と書いてあるのに10%以上の確率を答えた学生が一定数いた。理由を尋ねてみると、シナリオが詳しく書かれていたので、噴火するというリアリティーがあがってしまったようだ。全体として は、書かれていた数値は確率予想を下げる方向に作用すると同時に、具体性が確率予想を上げる方向

に作用するという、二つの影響を見出すことができ た。また、情報提供後の危険度の評価は全体としてやや下がったが、危険度と確率の相関は相変わらず低かった。

 

 小山さんは、正確な数値予測を出すことで、冷静な判断材料を提供しようと考えた。その試みは一定程度成功してはいるが、詳細さがリアリティーを介して、冷静さを阻害する傾向に働く可能性が見られた。社会に対して出されるリスクのメッセージはこうした点に対する考慮が必要なのだろう。

2015年

5月

26日

コラム113:山のグレーディング

 スイスでは登山道は3段階にランク分けされている。一番下は誰でも安心して歩ける遊歩道、その上がいわゆる 登山装備が必要な登山道、さらにその上が氷河の横断などもあるアルパインルートと分かれており、そこで必要な技術は登山地図にも描かれて いる。現地では異なるマーキングによって、どのランクにいるかが容易に分かる。ニュージーランドでは自然の中のトレイルは5段階になって おり、最上位のランクの道のスタートにはそれを示す標識があった(写真)。


 山での自己は自己責任とはよく言われるが、登山道の難度が分からなければ、ビギナーにとっては責任の取り方 が分からない。日本も早くコースの管理状況についての情報を出すべきだ、とずっと考えていた。この思いは、多くの山岳関係者共通だったら しく、昨年(2014年)から、長野で主要な登山道のグレーディングが公表されている。技術的な面で5段階、体力的な面で10段階に登山道のランクが分かれているので、マトリックスで50種 類の登山道があることになる。実際には体力的な要求の厳しい登山道は技術的にも厳しいので、そんなには細かく区分されてはいない。だが、 これまで落ちたら死ぬでしょという剱岳の登山路から高尾山の道まで区別がなかったことを考えれば格段の進歩だ。こういう情報があってこ そ、自己責任も全うできるのだ。


 技術の5段階については、対応する登山道の典型的な状況と登山者に求められる技術や能力も明記されている。 たとえば下から3番目(中間)のランクCでは「はしごやくさり場、場所によっては雪渓や渡渉箇所もあり、ミスをすると転落・滑落などの事故の可能性が ある、案内標識が不十分な箇所も含まれる」とある。そして必要な技術として「地図読み能力、はしご・くさり場を通過できる身体能力」とあ る。さらに注釈を見ると、地図読み能力とは「地図を見て自分の位置を知ることができ、目的地へのルートを識別できる能力」とあり、ナヴィ ゲーション系ではその他に登山道のない場所/分かりにくいところで安全なコースを見つけることができる能力であるルートファインディング 能力が区別されている。個々の場所でその技術が要求されるかどうかを判断するにはそれなりの知識と経験がいるが、非常に明確かつ的確に感 じられる。


 このグレーディングが今年(2015年)5 月から、静岡県、山梨県、新潟県でも、全く同じ基準でスタートした。以下のURLで見ることができる。コースについての情報が明確な形で公表されることで、登山者も自分がどのような力を身に つければいいかがはっきりするだろう。それが具体的にどんな力か、は常に吟味する必要はあるし、実際の登山道では、そこからのある程度の 逸脱はあるだろう。そういう可能性に臆することなく、グレーディングが公表されたことを高く評価したい。それと同時に、これをアウトドア 界共通の財産として、スキル向上のためのツールとして活用されることを期待したい。


静岡 山のグレーディングのURL.このURLから、長野、山梨、新潟のグレーディングにもアクセスできる。

http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-210/shisetu/yamagrading.html

2015年

5月

14日

コラム112:リスクマネージメントとナヴィゲーションの発想

 2012年2月に4人の知人を事故で失って以来、アウトドアにおけるリス クについて考えない日はなかった。折しも、僕は高所登山家へのインタビューから、彼らのリスクへの対処方略を抽出する研究に従事してい た。高所登山家は、掛け値なしに「死と隣り合わせ」の活動をしている。私たちは彼らと同じことは決してできない。しかし、私たちもアウト ドアで活動する時、「絶対ねんざしたくない」ではなく、「ねんざくらいは仕方ない」と思っているのではないだろうか。あるレベルまでのリ スクは許容しているのだから、リスクの中でそれを制御しようとする彼らのアプローチは示唆的なはずだ。


 そんな視点で研究をしてみると、彼らのリスクに対する考え方や取り組み方の特徴が見えてきた。主要な未踏峰 がほとんどなくなってしまった現代の高所登山家は、装備を自ら制約したり、より困難なルートを開発して、不確実さを含むレベルに挑戦を高 めることを意識的に行っている。不確実さは挑戦のわくわく感を生み出すと同時に不安の源でもある。では、その不安にどう対処するかだ。

 高所登山家へのインタビューから、彼らが1つの前提と2つのフェーズでリスクを制御していることが明らかに なった。一つの前提とは、①自然の中の活動には不確実性が不可避であること。そして2つのフェーズとは、②計画によるリスク回避、③オン サイト(活動場面の中での)でのリスク軽減である。


 不確実性の自覚とは、自分が従事している活動の結果が不確実なものであり、損害が希ではあっても起こりえる と考えていることに加え、そのような結果は偶発的に発生してしまうことへの自覚である。当たり前のことのように思えるが、活動に際してこ のことを明確に自覚できる人はそんなに多くない。この自覚があるからこそ、2つのフェーズによるリスクマネジメントへと意識が方向付けら れる。計画によるリスクの回避とは、事前情報や過去の経験によってカタストロフィックな不確実性を回避することである。オンサイトでのリ スクの軽減とは、活動中に得られる情報によって損害を伴う結果が顕在化する前にその都度対応していくことである。


 二つのフェーズによるコントロールが必要かつ有効なのは、次の理由による。複雑で曖昧な自然環境の中での活 動では、事前にどんなトラブルが起こるかを100%予測することができず、計画だけでリスクをコントロールすることは現実的でない。それ に対してオンサイトでは状況が限定されるので、起こりえるトラブルを予測することが容易になるからだ。一方で、オンサイトの判断だけで は、致命的な状態を避けられない。たとえば、裏山なら、雪が降ってきたら家に戻るというオンサイトの判断で十分だ。そこでは寒い・しもや けといった軽度のリスクはあるが、死ぬことはないだろう。だが、高山帯で十分な準備がなければ、雪に降られたら死ぬリスクもある。そうな らないためには、事前に十分な防寒具を準備するといった計画的対応が必要となる。事前の計画は致命的状態に陥ることを回避してくれる。オ ンサイトの判断で重要なことは、状況の変化に敏感になることと、そこに介入してシナリオを変化させることができるかを知っていることだ。 それは「臨機応変」ではあっても、場当たり的な対応ではない。


 こう考えて見ると、優れたオリエンテーリング競技者がナヴィゲーションの中で行っている行為は、これと同じ ものに思える。彼らは、森の中では思い通りに進路を維持することが難しいと知っている。オリエンテーリング競技では、競技中、ミスに対す る「頭の中のベルを鳴らす」ことが重要だと指摘される。これはリスクに直結する状況の変化に敏感になれという意味だ。それと同時に、その 場では制御不能のミスを回避するために、事前のプランニングも重視されている。そして、レースが終われば、ミスをした時はもちろん、そう でない時もレースの詳細を振り返り、次につながる教訓を得る。


 ナヴィゲーションについて考えてきたことが、リスクマネジメントにも有効に生かすことができた。その結実が 拙著「山のリスクに向き合うために:登山のリスクマネジメントの理論と実践」(東京新聞)である。6月中旬に発行予定である。

2015年

5月

07日

コラム111:GPSスマホの落とし穴

 消防大学校で読図の講師をする機会を与えられたのをいいことに、静岡消防で、司令の部屋を見せてもらった。山岳遭難の時の連絡先は消防である場 合と警察である場合がある。119番すると、ここに連絡が来るのだ。最近はスマホはもちろん、ほとんどの携帯電話にGPSが着いているから、30m程度の誤差で遭難者の位置が分かるはずだ。ところが実際にはそうではないらしい。市街地ですら100mを越える誤差が出る時がある。山岳で は場合によっては3000mもの誤差がある時もあるという。山岳で3000mも誤差があれば、探しだすのに相当な時間がかかるだろう。緊急時には 間に合わないかもしれない。実際、携帯電話で救助要請したものの、発見できずに死亡して後日発見されたというケースは他の都道府県でもある。


 誤差が1000mを越えるのはどうしてだろう?教えてもらったのは、多くの場合電池の温存のために、GPS機能をオフにしているからだという。もちろん、受け取った司令ではそれが分かるので、GPSをオンにしてもらうように遭難者に依頼する。だが、ここに落とし穴があって、速やかに GPSをオンにできる遭難者ばかりではないのだそうだ。確かに自分のIpadでもGPSオン/オフの仕方は憶えていない。しろと言われれば、なんとかできるかもしれないが、できる保証がない。まして遭難の状況下ではもっと難しいかもしれない。


 今や、携帯やスマホなら、救助者の位置が特定できる、という情報は流布されている。だが、オン/オフの問題があることは意外と知られていないのではないだろうか。使わないに越したことはないが、最後の命綱である道具について、使い方を知らないばかりに機能しないとすれば、リスクマネジメ ントになっていない。


 あなたは、自分のスマホのGPSのオン/オフの仕方を知っていますか?

2015年

5月

01日

コラム110:地図の抽象性

 昨年10月に行われるオリエンテーリン グ大会のために、地図作成プロ フェッショナルのNさんに地図作成を依頼した。オリエンテーリングでは、一般的に自治体が発行する都市計画図等の大縮尺の原図を 元に現地調査を行い、独自の図式に従って地図が作られる。富士山麓のように緩やかで微地形に富んだ場所では、これまでの原図は森に覆われ た大地を空中から撮影した写真によって図化するので、細かい地形は表現されない。従って、原図の等高線を大幅に修正して、その微地形を表 現することになる。今回利用したのは、詳細なレーザー測量から作った等高線原図と赤色立体図だった。調査はかなり効率的に進んだ。


 オリエンテーリングでは通常5mの等高線間隔が採用されるが、緩斜面の微地形を表現するためには、2.5mの等高線間隔がよいのではないかとNさ んが指摘してきた。確かに2.5mで作成したものは、圧倒的に地形が豊かに表現されている(図参照)。もちろん、豊かな表現の方がよいに決まっ ているが、コストを考えると、手間がかかりすぎるのではないだろうか?Nさんの答えは一見意外だった。実は2.5mの 方が手間がかからないというのだ。今回、原図として赤色立体とレーザー測量による1m間隔の等高線の原図が用意されていた。2.5mの 等高線間隔なら、そこから間引くだけで描くべき地形を表現することができる。一方5mの等高線間隔では、等高線がスカスカになりすぎるので、表現すべき地形上の特徴を選び取り、それがスカスカの 等高線で最大限表現されるよう、等高線に修正を加える必要がある。だから通常の地図作成とは異なり5mより2.5mの 方が楽なのだろう。


 彼から提供された2.5mと5mの地図を見比べた時、5mの 方が面白そう、とも直感した。2.5mの地図では、傾斜の緩急によって生まれた土地の形が、そのまま3Dで 見て取れる。他方、5m等高線にも地形の要所は描かれている。だが、隙間の多いその等高線から土地の形を読み取るには、かなりのイ メージ能力とそれを支える地形の構造に関する経験的知識が不可欠だ。5mでは地図の抽象度が上がっているので、具体的なイメージを作成するのに多大な努力が必要なのだ。それは調査者 が、現物に近い赤色立体図と詳細な標高データから5mという抽象度の高い地図を作成により多くの努力を要求されるのとは裏返しである。


 詳細な情報があるとき、抽象度が高い地図を作ることは調査者に情報の取捨選択という認知能力を課し、同時に そこから現実を復元する時にも利用者にも情報の補完という認知能力を課す。改めて地図の抽象度が利用者につきつける課題を実感した。

2015年

3月

17日

コラム109:道迷いシンポジウム

 3月14日、関西大学の青山さんとともに、同大で「道迷いシンポジウム」を開催した。もともと青山さんからは、日本の山岳のサーチ&レスキュー研究(IMSAR-J)の機構のお手伝いを依頼されていた。今回のシンポジウムはその活動の延長線上にあった。とにかく日本の山岳遭難は漸増傾向が1990年代から続き、そのうち道迷いの占める割合が40%を超えるに至っている。道迷い遭難の減少が遭難数減少の大きな鍵だということは、衆目が一致するところだ。


 もっとも警察庁の統計で「道迷い」と分類されるものは多様な内容を含んでいる。そのエリアに対する知識が不十分だったり、読図ナヴィゲーションスキルが不十分なケースはもちろん多数を占める。その他にも日没で救助要請に至ったり、パーティーが分離することでその一部が迷ってしまったりするものも道迷いに分類されている。逆に、トラブルのスタートが道迷いであるが、その後滑落等

により救助に至った場合は道迷いとはカウントされていない。2012年に奥穂高岳の通称「間違い尾根」に入り込んで滑落し、低体温で死亡した愛知県男性のケースなどがそれに当たるが、類似のケースは低山でも発生している。


 こうした実態や、シンポジウム当日の道迷い事例報告をみても、「地図が読めれば道迷いが減る」というものではないことが理解できる。事前の行程管理は日没によるトラブルを防ぐために有効だろう。登山でパーティーの持つ意味を理解することは、分離などの遭難に対して有効なはずだ。ナヴィゲーションスキルの前に、山に入るとは都市のように簡単に制御できない環境に入ることなのだということ、それに対して自立した活動者としてどうあらねばらないのだ、ということを学習することが必要だ。


 旧来、これは山岳会での「修行」の中で、先輩に一方的に諭されながらやってきたことだと思う。説得力に長けた先輩が、上手に諭すことができていればその方法も決して悪くはないだろう。だが、その方法論は今では時代遅れになっている気がする。大学から初等中等教育に至るまで、児童・生徒・学生の主体的な学びを確保するためのアクティブラーニングの方法への模索が始まり取り入れられている。柔軟な思考が要求されるリスク場面の多い登山の世界においてこそ、能動的な学びの方法論が真剣に模索されなければならない。


(宣伝:という問題意識で、登山のための実践的リスクマネジメント論を上梓しました。5月ごろ発売予定です。詳細はMnopウェブで)

2014年

11月

11日

コラム108:ナヴィゲーションのファンタジスタ

 9月下旬に行った古地図×地形萌えの東京探訪では、オリエンテーリングの日本代表選手をゲストとして招待した。大学院生の彼らは若いけれど、日本を代表するオリエンテーリング競技者である。一般の参加者に、彼らの優れたナヴィゲーション技術や、初見でどんなことを考えながらナヴィゲーションするのかを知って、参考にしてもらうために招いた。


 スタート前に、彼らに趣旨と古地図(迅速図)の特徴を簡単にレクチャーした。初めて見るに近い迅速図、地形と一部の古い道以外は現在とは全く違う地図内容、しかもどれが合っているか合っていないかが分からない中でのナヴィゲーションは、いくらナヴィゲーションの達人と言えども不安なものだろう。案の定、最初の1,2レッグでの彼らの動きはぎこちなかった。現代の正しい地図であれば、決して犯さない様なミスも犯した。そんな様子を見ていると、最初から古地図のナヴィゲーションに比較的順応していた自分自身が、「神社は尾根の先端にある」とか「神社は遠くから森として分かる」といった、地図からは得られない一般的な情報を活用してナヴィゲーションしていたのだということを思い知らされた。これは、たぶん私が大学時代に都市計画を学んでいたことと無縁ではないかもしれない。


 だが、彼らの真骨頂はその後にあった。数レッグ走ると、彼らは、チャレンジングなルートと安全なルートを使い分け始めた。地図上で何がよく分かり、どんな危険があるかを見抜いたからだ。後半には、自分がどんな情報を利用し、どんな意図でナヴィゲーションしているかも、他の参加者に解説しながら走るまでになった。彼らは、日々のオリエンテーリングの実践の中で、ナヴィゲーションに必要な、あるいは有用な情報は何か、に常に意識を向ける実践をしている。だからこそ、全く新しい情報環境の中でも、短時間で、使える情報とそうでない情報を峻別し、それを活用することができたのだろう。


 正直、その順応性の高さは、期待以上だった。最初から最後までうまくいくよりも、もっと有益なものを一般の参加者に見てもらうことができた。そして、「オリエンテーリング競技者はナヴィゲーションのファンタジスタ」という持論を確認することができたことも、僕にとっては収穫だった。

(遠くに見えるマンションの様子から、丘の存在を知ることができることを説明している結城克哉選手) 

 

2014年

11月

03日

コラム107:登山届の義務化に反対する

 御嶽の噴火に伴う行方不明者の捜索難航の教訓から、登山届けの義務化の動きが報じられている。10月29日の朝日新聞岐阜県版では、県が義務づけのための条例改正案を目指して有識者会議を立ち上げたことを報じ、10月30日には、全国版で岐阜県が義務化を巡って議論していることや長野県でも検討がなされていることを報じた。これによればもともと岐阜県は12月から北アルプスの遭難多発区域での届け出を義務化すべく条例が制定されていたが、御嶽を含めた改正案を12月県議会に提出する予定だという。


 この条例の制定が広がろうとしている今、山岳遭難を研究フィールドとするものとして、今後の条例化に反対の声を上げることにした。理由は大きく分けて二つある(注1)。


 一つは条例の実効が期待しにくいことである。たとえば岐阜県はその目的として「登山者による事前準備の徹底及び山岳遭難の防止を図る」とある。また目的として明示されていないが、その前文を見ると、遭難した登山者の捜索活動に必要な労力を軽減することも目的の一つだと考えられる。しかし、現在の(高山の)遭難の多くは事前の計画とは直接関係のないところで発生している。特に岐阜県がもともと条例の対象としたのは穂高周辺である。残念ながら同所の詳細な遭難記録は入手していないが、類似であると思われる長野県の遭難記録を見ると、滑落転倒が多い。詳細な分析をするだけのデータはないが、直感的にはこれらはその場でのスキルや行動上の問題により発生するものである。もちろんエリアによっては道迷い遭難が多く、その防止のためには事前計画が有効な部分があるかもしれない。しかし、もともと岐阜県が対象としたエリアではほとんど発生していない。


 登山計画書は、道迷い遭難の発見にもおそらく有効だろう。しかし、現行の登山届けのシステムが機能するかどうかは疑問がある。登山道の入り口に登山届け提出ポストがある。中を見ることができる場合がある。あまり古い届け出用紙がないことを見れば一定期間で回収しているのだろう。だが、毎日ということはなさそうだ。なにより下山時の届け出システムや届け出と下山届けをマッチングさせるシステムがない。だとすれば、道迷い遭難が起こった時のダメージコントロールシステムとしては、非常に微力だと容易に推測できる。


 第二の理由は、登山者自身の自立を促すことや、適切な「自助、共助、公助」という防災では常識になりつつある考え方に反しているからである。筆者は、大規模なトレイルランニング大会の運営にも携わっている。そこでは少数ではあるが、要項に示された「自己責任」の考えを理解せず、(参加費を払って参加したイベントではあっても)本来自分が解決しなければならない問題について、安易に「公助」を求める参加者がいることを経験している。問題の枠組みは違うとは言え、自ら選んだ活動においてまずは自分で安全を守ろうとする姿勢が登山者から後退していることはよく指摘される。登山届けの義務化は、それを助長してしまうのではないかという懸念を大きく持つからである。


 義務化され、罰金まで払わされるとなれば、必ず救助活動についての行政の義務を指摘する声は強くなるだろう。提出した登山届けの適切な管理について、個人情報だけでなく、「義務に従って届けを出したのだから、安全を見届けろ」という議論は必ず起こるだろう。これは、自助、共助、公助という考えに逆行している。


 そこで対案を示す。簡単なことである。家族に登山計画書を残せばいいのだ。家族がいなければ信頼できる知人でもよい。結局現在の登山届けのシステムでも、ダメージコントロールの重要な部分は家族等からの警察への届けである。今やファックスでも写メでも、地図も含めた詳細な情報を警察に転送する仕組みはいくらでもある。約束の日時に帰ってこなかったら、家族に行動を起こすように依頼する、そして家族もそう行動する。これによってシンプルかつ大きなコストを掛けず遭難のダメージコントロールができる。相手がよく見えない公共に対してよりも、家族や知人に「・・・までに帰って来なかったら、警察に届けて欲しい」という方が遙かに緊張するだろう。思うに、登山届けというのはこういう画像転送技術が発達していない時、初動には近くに詳細な情報があったほうがいいという考えで生まれたものではないだろうか。


 事情があって家族に登山届けを残せないものもいるかもしれない(彼女との不倫山行とか、いやそうでなくても家族が「心配するから」という理由もあるだろう)、あるいは知人も身よりもない人もいる。確かにそうだ。そんなときこそ、登山団体の出番ではないか。まさに共助である。登山団体がボランタリーに、そういう人たちの届けを預かる活動をしてはどうだろう。現在なら大量の登山届けがだされても、予定日に帰ってこなければ自動的にそれを抽出したり、なんらかのアクションを起こすことは可能だろう。登山団体のよいPRにもなるし、それが遭難の抑止力になれば、進む組織離れへの大きな抑止力にもなるはずだ。実際、日本山岳ガイド協会はこうした仕組みを整えている。


 今回の条例化の動きに関する記事を追ってみると、北アルプスのような遭難多発地帯に業を煮やして、あるいは御嶽での行方不明者の捜索にほとほと困り果てての切実感が過剰に拡散しているように思える。もともとの遭難多発地帯への対応にしても、上に述べたように、実効性には疑問がある。行政として何かせざるを得なかったという点は理解できるが、この動きがむやみに広がることは第二の理由から大きく疑問を感じた。

 山の安全を誰が、どう守るのか。その議論の一助になれば幸いだ。


注1:念のため書き添えると、筆者が反対するのは、現状の制度のもとでの登山届けである。提出や管理の形態によっては登山届けが遭難防止に有効な働きがあることは否定しない。同時に、有効化するためには義務化そのものよりも、システム整備や教育などで多大な努力が必要なことを忘れてはならない。登山届け義務化でできることは、もっとシンプルな方法でできる。


 ちょっと余談:かつての流域下水道に対する宇井純や中西準子の反論を思い出してしまった。登山届けは流域下水道のようなものかもしれない。危機をそれより遙かに多い問題ない状態の中に薄めてしまうことで処理コストがあがってしまう。危機はその間近で処理するのがよい。


 余談その2:「反体制的」な記事の多い朝日新聞の記事で、御嶽からみの切羽詰まった登山届け義務化と、一般の登山届けの義務化の話がごちゃごちゃに報道されているのは、いかがなものかと思った。しかも登山関係で名のある記者の方の執筆であっただけに、実効性や課題について十分取り上げられていないことを寂しく思った。
 ぜひ、「オピニオン」でジレンマ性について深く議論を深めてほしいものだ。

2014年

10月

13日

コラム106:ノーベル賞

 ノーベル物理学賞が日本人3人(正確には中村さんは米国市民権所持者らしい)が授賞したニュースにかき消されてしまったが、私にとっても今年のノーベル賞はエキサイティングなものだった。ノーベル生理学・医学賞は、オキーフらの海馬における「場所細胞」の発見に与えられたからだ。マスコミの中には「脳内GPS細胞」と報じたものもある。原理はだいぶ違うにしても、機能としてはこの比喩はほぼ的確に発見の趣旨を捉えている。オキーフらは、場所が分かるというかなり高次な認知機能に直結する活動の細胞を1970年代に見つけたことが授賞理由だった。


 この発見に触発されて、その後、海馬とその周辺では、自分が向いている方向に特異的に反応する「頭方向細胞」、境界が特定の方向にあることに反応する「境界ベクトル細胞」、さらにオキーフと同時にノーベル賞を受賞したモーザーとモーザーにより「格子細胞」が発見された。いずれも、空間を何らかの形で概念化して把握することに対応した細胞である。それらの協働がどのようなものかは未解明だし、そうした神経機構を基盤にしてどのようにナヴィゲーションの問題解決がなされているかは、今後のチャレンジである。さらにいえば、これらの研究の多くは齧歯類での発見である。夜行性の齧歯類と人間では空間を認知する時に手がかりにする情報が異なる可能性はある。また場所細胞が反応しているのは、純粋な「場所」か、それとも目印なのかについても、議論の予知はある。課題はあるにせよ、それが明確な形で記述できるのも、彼らの発見があればこそなのである。また、アルツハイマーの初期の典型的な症状にエピソードに関する記憶の障害や慣れている場所での道迷いがあることから、空間認知に関連した神経生理学的研究はアルツハイマー症の予防にもつながるというのが今回の受賞理由の一つだ。


 中村修二さんは、会社と戦っていたころから注目していただけに、その授賞はうれしくおもったが、彼ら日本人の授賞や史上最年少の女性の平和賞受賞などの陰に、場所細胞の発見のニュースが霞んでしまったのが、ちょっと残念。

 

2014年

8月

26日

コラム105:安全と教育意義のジレンマ

 7月3日、静岡県の消防学校での水難救助訓練中、訓練生二人があわや溺死という事故が起こった。5mの水深のプールでの着衣泳での立ち泳ぎの訓練中だった。二人はすぐに救助され、心肺蘇生法やAED(実際には利用せず)が試みられた。まもなく二人とも息を吹き返し、最悪の事態は免れることとなった。もちろん、それは消防という日頃からリスク管理を行っている訓練されている組織だからできたことだろう。


 学校教育の場でこのような事故が起こると、訓練内容の見直しということになる。着衣泳、立ち泳ぎという厳しい訓練が問題だ、となる。しかし、ここで悩ましいのは、これが消防学校の訓練だということだ。彼らはここでの研修を終えれば、より厳しい現場に出る。職業の特性上、そこでは命をも危険にさらすリスクがある。訓練を安全にすることはできるが、それでは意味をなさないだろう。何より訓練生自体の将来の命を危険にさらすことになってしまう。


 改めて考えてみれば、このようなジレンマは何も消防学校だけのものではない。通常の学校教育でも、危ないものを全て排除することは可能だ。だが、それは将来どこかで出合うハザードに対する振る舞い方を習得する機会を奪い、リスクを先送りしているだけに過ぎないのかもしれない。先のリスクはそれほど目立たないから、どうしても、今のリスクをどうするか、という話しになってしまう。数十年先のリスクの責任を問われることはないだろうが、今のリスクが招いた結果の責任は、容易に取らされる。これも、リスクを先送りしがちな大きな理由だろう。消防学校という特殊な状況が、教育とリスクが抱えるこの問題をあぶり出してくれたと言える。


 もちろん、訓練と実践とは違う。訓練の場では表面的には同じように危険な内容でも、それは予め了解した上で設定することができるし、最悪の事態にならないようにダメージコントロールをすることもできる。そう考えれば、いたずらに訓練の質を下げて見かけ上の安全を確保するのではなく、コントロールした上で、そのリスクに立ち向かうべきなのだろう。消防学校は、この事故を契機に他の実技訓練の安全点検も行う。現状追認のyesでも、危険に萎縮したnoでもない、リスクを意識し、そのリスクをコントロールする、という発想でそれが行われることが、ジレンマの解決につながるのだろう。

2014年

8月

11日

コラム104:リスクは誰にでも顕在化しうる

 トレイルランナーの相馬剛さんが、マッターホルンの登攀中に滑落事故に遭った。7月下旬、アイガーを巡る100kmのトレイルレースに出た直後のできごとだった。この事故を悲痛な気分で受け止めた人は多いだろう。昨年10月に旧職を辞し、トレイルランニング界を支える活動を開始した矢先の事故だったこともある。しかし、彼の事故が、昨年2月に立て続けに僕の周りで起こった海・山での遭難事故に比べてショッキングだったのは、彼が、元々リスクマネジメントに関わる仕事をし、アウトドアでは避けられないリスクに対して一定の自制心を持った人物であったと感じさせていたことが大きい。彼が主宰するFujitrailheadのサイトにも「山で死んではいけない」と書いてある。また、数年前、私がディレクターを務めたレースが台風の余波でコース短縮となっ た。前日から当日にかけて相当の雨量であった。相馬さんは出場してくれたが、そのレースを実施すべきかどうかをメールで議論したことがあった。「リスクマネジメントを仕事としている者として・・・」と断り書きの上で、そのレースをやるべきではなかった理由がいくつも列挙してあった。それらは批難ではなく、冷静な問いかけだった。そんなに冷静に自然のリスクを語れる人だったのに。どんなに注意深い人間でも、制御できない自然の中では事故は避けられない。その事実は、リスクをテーマに研究活動をしている私には既知のことではあったが、改めてその現実を身近な人間の事故によって突きつけられるのは辛いものがある。

 

 思えば、「トレラン紀元前」を牽引した下嶋渓さんも、マッターホルンで滑落死している。単なる偶然だとしても、そこには、中途半端な難易度 (ロープで確保しなくてもいけると思う程度の斜面)が、リスクを高めるという教訓をくみ取るべきだろう。相馬さんの場合には、100kmレースの わずか数日後というのも気になる要因だ。どんなに強靱な肉体を持ってしても、100kmレースは身体のダメージを与えたことだろう。それも事故の遠因になっているかもしれない。こうやってリスク要因を書き出すごとに、それに彼が無自覚だったのか、それとも自覚しつつも挑戦した上での敗退なのか、ともはや答えの得られない問いかけをしてしまう。

 

 大きな身体的リスクはないオリエンテーリングだが、ミスが競技にとって致命的だという特徴を持つ。そして、ミスは自然の曖昧さを読み誤ることによって発生する。その点では、オリエンテーリング競技者が遭遇するリスクはアウトドアにおける身体的リスク源となんら変わることはない。かつて招いた世界チャンピオンが、オリエンテーリングをしている時には、(リスクに対して)「頭の中でベルを鳴らせ」という言葉を残していった。自然の中での活動に関わる際の、警句として留めたい。

2014年

6月

15日

コラム103:子どもの学び

 4年生になると社会科で地図学習が行われる。地図自体も学習の対象で、様々な学年の学習内容に地図を活用することが指導要領でも謳われている。特に学区の探検では、地図の縮尺も手ごろなので、地図が使われやすい。私が勤務する学校では、毎年この時期になると、街の中心部にある城跡の周囲を含めた学校区の探検に出かけ、それを地図化する授業をやっている。先日、ある教室の授業を参観する機会があった。学校は城跡の東に位置し、教室は城跡の方(つまりは西)を向いている。授業が始まる前に先生はわざと地図をノースアップで黒板に貼った。


 自由主義的な教育の本校では、子どもはちょっとした意見もすぐ口にする。誰かが、「先生、地図の向きが違う」と言った。賛同する子どももいる。「それだと(北となりにある)附属中学校がこっちなのに、こっちになっている」というのだ。子どもだから、なかなか的確にいいたいことを言葉にできない。ところが、中にはそれでいい、という子もいる。「地図は北が上じゃなきゃだめ」というのだ。地図は通常北を上にして使う、ということをどこかで習ったか聞いたのだろう。それはそれで理にかなっている。先生がこれらの発言を取り上げ、最初に貼ったままがいいのか、それとも、横にした方がいいのかと問いかける。僕が見ていた子は、隣の机の子と地図を逆向きにして比較しているが、見るべき焦点が絞れていないので、うまく結論がでない。自分の周りで実際の目標物の関係がどうなっているか、それが地図ではどうなっているかを一々意識しないと、問いへの結論はでないだろう。子どもには特に後者の作業が難しいようだが、自分より小さな地図の中で、位置関係を読み取るのは、大人でも意外と難しいのかもしれない。読図の講習では普段何気なく、「地図上の目標を実際の方向に合わせてね」、というが、地図読みが苦手な人にはもう少し丁寧にその作業のポイントを伝えるべきなのだろう。


 この授業の大きな狙いは、わかりやすい/使いやすい地図とは何か、だった。地図の向きはその中でも利用者が介入できる数少ないポイントだ。しかも日常の見かける街の地図の良し悪しを考えるポイントにもなり得る。もう少し時間があれば、地図の向きという視点から「わかりやすさ」とは何かについて掘り下げ、子どもたち自身の周りにある地図についても考えるきっかけを提供できただろう。現実の学校の授業ではそれを掘り下げる時間がなかなか確保できないのだ。

2014年

5月

06日

column102:江戸の近郷

東京で明治期の地図を使ったナヴィゲーションに最近はまっているのは、ここ数回のコラムで紹介した通りである。ヨーロッパに遠征すると、ホテルから走っていけるような都市のすぐ近くに豊かな田園風景や里山が残っていることをうらやましく思ってきたが、江戸期の東京もそれに負けず劣らずの田園都市だった。このことは、江戸期の紀行文や明治初期の国木田独歩の随筆などを読むと伺える。また、明治期の地図を見れば、その景観を生き生きとイメージすることもできる。その地図を持って東京を歩き/走り回ってみると、その感は一層強くなる。


 現代の地図では、市街地の中にわずかに寺社の記号が記載されているだけの場所も、明治初期の地図(つまりは江戸期の景観とほぼ等しい)を見ると、武蔵野台地上の緩やかな谷の中の田畑や雑木林に囲まれた、いかにも寺社が立地していそうな尾根の先端だったりする。寺社だから、さすがに何か残っているだろうと思って行ってみると、遠くからもこんもりとした杜が見える。その場所に着くと、奥山の寺社もかくやと思わせる自然が残っていたりする。こうした場所は川によって浸食された急斜面に沿ってあるので、近代まで開発が難しかったということもあるだろう。何よりも宗教施設として手が付けられにくかったという事情も関係しているのだろう。


 あるいは、現代の1:25000地形図にはその痕跡を示すものは何もないのに、地形を求めて谷戸の奥に降りてみると、そこだけ小さな公園になっていて、かつての湧水を生かしたであろう弁天池が残っている。かつての景観を偲ばせるこうした場所見つけると、山で珍しい動物や植物に出会った時のように嬉しくなる。江戸を偲ばせる場所との出会いは、普段の何気ない散歩でも得られるかもしれない。だが、古地図とナヴィゲーションは点でしかないものを広げる役割を果たしてくれる。古地図は、場の周囲のかつての景観を教えてくれる。また、自らナヴィゲーションすれば、地形の特徴への意識が高まり、今では市街地の中に埋もれて見えにくくなっている地形への感受性を高めてくれる。


 こうして、点でしかない江戸期の景観が想像の中で自分を取り巻く世界へと拡大される。古地図×ナヴィゲーションは、100年の時間をタイムスリップすることを可能にしてくれる。

頼朝が馬を松につないだという駒繋神社(右手斜面上)を取り囲む様に流れる蛇崩川の緑道
頼朝が馬を松につないだという駒繋神社(右手斜面上)を取り囲む様に流れる蛇崩川の緑道

2014年

4月

28日

コラム101:山岳雑誌に見るリスクマネジメント・道迷い遭難

研究上の必要性から、過去5年ほどの山と渓谷のリスクマネジメントや遭難の特集をレビューした。だいたい年に一回は読図や遭難リスク特集か企画記事が掲載され、2年に一回くらい、大きなリスクマネジメントや遭難特集が組まれる。最近では、2014年3月号が「遭難を起こさない『心技体』」だった。


 以下に紹介する特集は読図に偏っているが、平塚晶人さんの読図記事は、一貫性と実用性という両面で、光っている。


①2009.11(No.895) カンタン読図の道迷い防止術
 丹沢で地図読み初心者と一緒に登りながら、行動と思考を実地検証した記事。ここでは初心者が陥りやすい道迷いのトラブルを実地検証しているが、 登山道が岩やザレのなかを通ると、とたんにその踏み跡を追えなくなるとか、石が靴にこすられて白く変色したところがルートであるという認識がないといった、読図をナヴィゲーションに生かす上で環境への注意が欠かせないこと、その背後には環境に関する知識が必要なことが明確に示されて いる。平塚さんは、これを「道の意図を察知し、勘を働かせる」と、分かりやすく表現している。またこうした課題に対応した、「カンタン読図」のポイントが示されている。


②2008.2(No.873) 山のリスクマネジメント
 もう6年前の発行になるが、これは山で出会うリスクに関する包括的なよい特集号である。遭難の中身など経年的に変わらないから、現在でも十分通用する。充実させてムックにすればいいのに。
 ここでも、平塚さんは、「メリハリの効いた読図」という表現で、的を絞った読図の重要性を指摘している。彼自身は言語化していないが、リスクの特定、リスクの評価に基づくマネジメント、という一貫した視点が見られる。リスクマネジメントの発想を生かした道迷い防止の方法論である。

 雑誌記事にはしばしば遭難事例が出てくる。道迷いでは、「遭難3日目になって初めてコンパスで方向を確認した」など、唖然とする記述がある。あくまでも事例だし、だからこそ大遭難をするのだろうが、コンパスをいつどう使うかは、ナヴィゲーションスキルの重要なポイントなのに、意外と正しい知識が流布していないことが分かる。

NPO法人Map, Navigation and Orienteering Promotion

 オリエンテーリング世界選手権の日本代表経験者、アウトドア関係者らが、アウトドア活動に欠かせない地図・ナヴィゲーション技術の普及、アウトドアの安全のために設立したNPO法人です。

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初心者に最適なコンパス、マイクロレーサー