コラム バックナンバー 121-140

2019年

6月

07日

コラム140:Control your destiny, or someone else will

 日本人初のF1ドライバーである中島悟に「交通危機管理術」(新潮社。絶版)という本がある。この本を読んで今でも実践していることがある。それは、交差点の赤信号で停まる時に、バックミラーで後ろを見ること、車の前に一台分のスペースを空けること。道路というのは、車が高速で通過する場所である。生身の人間がその中に立ち止まるなどということは普通考えられないだろう。赤信号で停まるということは、そのようなリスキーな空間に立ち止まることに等しい。もちろん、車という金属製の箱に守られているが、それでもけがは免れない。友人にも、それで競技生活を棒に振った人がいる。リスキーな行為をする以上、最悪のことを想定し、それに対するコントロール性を維持するべきだ。中島の主張はそこにある。

 

 生身の人間であればなおさらである。先日僕の研究についてインタビューに来た学生に、「君たちは青信号の時に左右を見てから渡る?」と聞いたらきょとんとしていた。説明して得た答えはnoだった。道路を渡るということは自動車がびゅんびゅん走るリスキーな空間に身を置くことでもある。青信号という制度、そして青信号を守るという倫理観によってかろうじて一時的に安全が確保された空間である。左右を見ずに道路を渡るのは、制度や他者の倫理観に自分の運命を委ねるに等しい。現代社会において、自分の命を委ねるほど他者の倫理観は信頼できるものだろうか?と問うと、ようやく納得していた。

 

 今、社会の安全はかつてないほどに高められている。本学でも、昨年夏に近くの高松海岸で3名が高波にさらわれ(と推測されている)死亡した事件を受けて、入学式で海岸の危険について講話を受け、しかもその海岸は立入禁止になっている。高松海岸に関しては、本学の学生はこの事件が風化しても死ぬことはないだろう。制度化されたからだ。もちろんそれ自体は望ましいことだが、その安全は外部によって守られたものだ。村上陽一郎の議論にならって、私はこれを「安全機能の外化」と呼んでいる。安全機能が外化されれば、安全がどうやって守られているかが不可視になる。さきほどの学生も、「制度と倫理観が君たちの安全を保証している」と言われるまでそれに気付かなかった。

 

 安全機能が外化によって高められることの弊害はこんなところにある。もし安全性が何によって高まっているかを知らなければ、当然逆、つまり安全性が低下する事態への感受性も低くなる。それはとりもなおさず、リスク増大への要因に人が鈍感になることでもある。山岳遭難増加の要因の一つに、それがあるのではないかと思う。

 

 もちろん、処方箋もある。さきほどの学生も「制度と倫理観が君たちの安全を保証している」と言われ納得した。「こう説明を受けたら、道路を渡る時、左右を見ようと思うよね」と問うと、うなずいた。もちろん生への高い動機付けがないとその行動を継続することはできないかもしれないが、少なくともこのことを知らなければ、動機づけさえ起こらないだろう。私が安全教育において認知心理学的アプローチに拘る理由もそこにある。

2019年

5月

02日

コラム139:自然の中のリスクに備える

 平成最後の大イベントUTMF(富士山一周100マイルレース)が終わった。27時間のところでレース短縮決定、フィニッシュまで到達したのが100名弱という残念な結果には終わったが、安全管理上の意志決定については概ね選手・関係者からは肯定的な評価を頂いた。標高1600mを超える降雪3cmの真夜中の杓子岳を、冬山の経験が必ずしもあるわけでもないトレイルランナーに踏み込ませる選択はなかっただろう。反面、それほど過酷ではなかった富士吉田でレース短縮となった選手には残念な思いが残ったと思うと心苦しい。

 

 アルパインクライマーの馬目さんは、「合理的に考える力があれば、敗退は難しくない」と、「退く勇気」を否定する。僕も同感である。今回のUTMF短縮について「苦渋の選択だ」と労ってくれる人がいる。しかし、渦中にいた人間から見れば、状況ははっきりしていた。私自身は決断が難しいと感じることはなかった。それでもいくつかの準備された必然、そして偶然が決断を容易にすることに寄与したことは確かだ。数年前から安全管理のために日本最強の山岳ガイド長岡健一さんにチームに加わってもらったこと。長岡さんは大したギャラでもないのに、当日の救助活動はもちろん、事前に全ての山域を把握するといった情報収集力を発揮して、もしもの時に備えてくれた。

 

 当日の気象状況の変化も、偶然のもたらした幸運だった。12時ごろ、雷注意報が出そうな警告が天気予報サイトで発表されていた。いち早くそれに気付いた長岡さんのアラートで、注意報が出された時の対応を考え始めていた。注意報で止める必要はないから、これは難しいことではない。それでも、日英中三カ国語で警告メッセージをSMSに出すにはそれなりに時間が掛かる。その時、可能性は低いが警報が出たらどうするかについても協議をしていた。落雷で遭難に遭うのは年間3000人の遭難中0.1%程度に過ぎないが、現代の社会状況的には警報時の継続は考えられない。この時、「警報が出たら最寄りのエイドで1時間の中断、1時間後に警報解除されなければレースは中止、と決めていた。後から考えると、この時、そこまで踏み込んで想定していたことが、後のスムースな意志決定の下地になった。実際13時に、注意報発令に対する警報をSMSで発信した。担当の女性からは「あー、30万円が・・・」と嘆かれた。

 

 リスク回避の決断を鈍らせる最大の要因は、それによって発生するコストである。やはり日本を代表するアルパインクライマーの山野井泰史氏は、遭難しかけたK2登山では、自分たちが費やしてしまったコストに対する醜い執着があったと回顧している。UTMFでも、もしレースを中止すれば途中でレースを終えた参加者を輸送するためのバスの手配、完走者をどのように定義し、彼らに対してどのようにフィニッシャーズベスト(完走賞品)を渡すかといった問題が発生する。それらは安全管理とは本来直接には関係ないが、レース中止のコストとして安全管理に影響を与えかねない。合理的にはおかしなことだが、人間の意志決定はそれほど合理的ではないことは認知心理学者が嫌というほどの実験結果を出している。幸いなことにレースは中止ではなく、途中の距離に応じた「レース」として記録認定ができることを実行委員が知っていたことで、このコストを気にすることなく、意志決定することができた。気象状況による「中止」の必要性を一番感じていたであろう長岡さんが、これを聞いた時、「あ、それなら安心して中止できる」と語ったのが印象的だった。現場での臨機応変な意志決定を阻害しない制度は、アウトドアの安全において非常に重要だと言える。

 

 短縮により途中でレースから離れる参加者をどう輸送するかというロジスティックの問題も意志決定に大きく影響する。秋開催による天候不良に何度も対応してきた実行委員会としては、その対応能力は十分に高まっていた。短縮に伴うエイドからの輸送に対応したバスの手配は、限られた資源の中で比較的スムースに実行することができた。2010年にUTMB(ウルトラトレイル・モンブラン)を視察に行った時、30kmでの中止後の臨機応変な対応に驚愕した(注1)。それに追いついたとは言えないが、7回にして不測の事態に比較的スムースに対応できる力を実行委員会が身につけたことは感慨深い。

 

注1:この年、UTMBは、最初の峠越えの悪天候の予想のため、スタート後たかだか30kmのエイドで中止となった。深夜に決まったこの中止数時間後には、翌朝イタリア側の都市クールマイヨールスタートで半周レースが行われることが公表された。先着1000人に対してバス輸送の提供があることも同時に公表された。

2019年

4月

23日

コラム138:コースプランニング

 ロゲイニングでは、もちろんCPの位置は歴史性や興味深さで考え抜いた末に配点を決めるのだが、率直なところCPの位置にはあまり工夫はない。一方で、ポイントオリエンテーリングやOMMのストレートのように順番に通過すべきCPが決まっている競技では、どこにCPを置くかは、参加者に問うべき技術を直接コントロールすることになるため、その善し悪しはイベントの質、ひいては参加者の満足を決定する。特にオリエンテーリングでは、コースをどう組むかは、大会の最大の見せ場であり、運営者としても腕のふるい所の一つでもある。

 

 今思えば、オリエンテーリングを初めてたかだか10年の若造だった24歳の時、国際連盟が発行していた「コースプランニング」の書籍に衝撃を受けて、自分でもコース設定理論と実践をまとめたことがあった。その発想は、その後いくつかの大会で実現することができたが、全日本のロングだけは45歳の時まで出場していた関係で、縁がなかった。それが今年、実行委員長の山川氏に誘われた。全日本では年齢別に多くのクラスが用意される。年齢やスキルに応じた数多くのコースを提供しなければならない。全コントロール数の制約もある。トップ選手にとってよいコースを組むだけでなく、全ての参加者にとってよいコースを組むことはかなり骨の折れる仕事でもあるが、やりがいのある仕事でもある。断る選択肢はなかった。

 

 オリエンテーリングのロングやOMMで中心的な課題となっているのはルートチョイス、つまりいくつか想定されるルートから最速のルートを読み取る力である。それは同時にルートプランの作り挙げる力も要求する。特にオリエンテーリングでは、CP間の区間は道のない山野に設定される。道でない場所では尾根線や谷線を利用するか、あるいはコンパスを使って直進するか?地図を走りながら素早く読み取り、自分ができるだけ容易にナビゲーションできるルートにつなぎ上げる。その能力が問われる。オリエンテーリングの場合には、その他にも道などをつなげる易しい区間から、地形上の細かな特徴を読み取らないと進めない難しい区間へのスピードや注意力の切り替えも問われる。実施するテレインで、参加者の能力を最大限に問うコースを作る、そこにコースプランニングのアートがある。

 

 今回、若い競技者と協力してコースプランをする機会も与えられた。彼が作ったコースに僕がコメントを付け、代替区間の提案をする。その提案を彼が咀嚼し、さらに「むしろこうした方がよい」と言ってきて、コースが修正される。そのコラボレーションは手間暇は掛かるが楽しくもあった。オリエンテーリングでは優勝設定タイムをかなり気にしてコースの長さが決定されるが、山有り谷有り、やぶ有りのオリエンテーリングでは、単に距離や登距離だけで決まるわけではない職人芸に近い。最後の最後に迷って一部をカットして短くしたりもした。

 

 「後半疲れたところで、正確なナヴィゲーションを要求された」「ルートを選んでからも、本当に最適なルートか不安を持ちながら走った」など、コースがフルに参加者の能力を問い続けた事をうかがわせるコメントが多く聞かれた。作り上げられたコースからだけでは分からない努力が、ナヴィゲーションスポーツの面白さを支えているのだ。

 

 

9→10には、大きく分けて3つのルートがありえる。一番距離が短いのは水色だが、南回りの黄色も距離が500mのびているに過ぎないので、水色と紫では登って降りることやナヴィゲーションに神経を使うことを考えると互角と思われる。
9→10には、大きく分けて3つのルートがありえる。一番距離が短いのは水色だが、南回りの黄色も距離が500mのびているに過ぎないので、水色と紫では登って降りることやナヴィゲーションに神経を使うことを考えると互角と思われる。
全日本オリエンテーリング大会M21E(男子最高位クラス)の当初案(水色)と実際のコース(紫)。細かい部分だが、3番はアプローチから見えにくい小さな谷の中に移している。4番もやや大きめの谷ではなく曖昧な斜面に移動することで丁寧なアプローチを要求している。5も同様である。
全日本オリエンテーリング大会M21E(男子最高位クラス)の当初案(水色)と実際のコース(紫)。細かい部分だが、3番はアプローチから見えにくい小さな谷の中に移している。4番もやや大きめの谷ではなく曖昧な斜面に移動することで丁寧なアプローチを要求している。5も同様である。

2019年

3月

08日

コラム137:若者の自然回帰

 減少しつづけた大学オリエンテーリング部の部員が2011年ごろから増え始めたという話をかなり前に学生連盟関係者から聞いた。2011年3月に発生した東日本大震災では多くの死傷者が出た。それ以上に、一人一人の人間の弱さ、その中で助け合う人々の姿がクローズアップされた。絆という言葉も流行った。大学のオリエンテーリング部への回帰はその延長線上にある。わかり易いストーリーだったので、単純にそう思っていた。

 

 那須岳の雪崩遭難事故を契機にスポーツ庁で編集した、高等学校登山指導者用テキスト「安全で楽しい登山を目指して」の編集に携わる機会を得た。その中に、高校登山部の加盟人口や加盟クラブ数の経年変化のグラフがあった。それを見ると、高体連の登山専門部の加盟数は2006年ごろに底を打ち、2008年ごろから回復傾向にある。このことは、2011年の地震とは無関係に若者の登山回帰が始まったことを意味する。2008年ごろに高校に入学した若者たちの多くが2011年に大学に進学する。大学のオリエンテーリング部員が復活傾向にあるのは、それと共通の流れと考えることができそうだ。学校単位で見ると、男子の加盟校数はその後も減り続けているが、女子の加盟校は同じ頃から増えている。一方で、加盟者数の増加は男子の方が著しい。

 

 2008年には「山ガールブーム」と呼ばれる登山回帰が話題になったが、同時に男性若年層でも登山者が増え始めたことが指摘されている。これらを総合すると、2011年の大学オリエンテーリングクラブの参加者増は、こうした大きな流れの一部だと考えた方が良さそうに思える。

 

 登山やオリエンテーリングに回帰した人口の動機づけが同じようなものだとしたら、それはどこにあるのだろう。単なる自然回帰なのかもしれないし、アクティブな活動志向なのかもしれない。あるいは自然はあまり関係なくて、クラブ等への所属欲求の高まりなのかもしれない。

 

 上述のテキストはこの問いにもある程度回答を与えてくれる。自由記述を集約すると「山や登山の魅力」(美しい景色や自然と出会えた,登山が楽しい,クライミング,沢登り,スキーを知ることができた,等が52%と最多を占めるが、「人との交流」(よい友人(同級生,先輩,後輩)や指導者(顧問等)と巡り会えた,登山を通して様々な人と出会うことができた,等)も31%で次いでいる。さらに、「体力や健康の改善」が29%、「精神面での充実や成長」が26%、「知識や技能の習得」は意外と少なくて10%であった。登山に限っていれば、上に挙げた動機づけはいずれもそれぞれに真実であることが分かる。

 

 NHKに勤める知人に話しをしたら、山岳番組の影響ではないかという。確かにこのころウルトラトレイル・ド・モンブランを題材にしたトレランレポートがまだマイナーなスポーツだったわりには人気を博した。高校生の年代に相当する若者がこれらの番組に感化されたことはちょっと考えにくい。番組が原因というよりは、社会の中にあるなんらかの動きが一方でこうした人口増をもたらし、またそれを敏感に感じたマスメディアがそれを番組にしたということかもしれない。

 

 今後も若者のアウトドア活動への志向性がトレンドとして残るのか、波のように引いていくのか、興味あるところではある。

2018年

9月

27日

コラム136:台風のさなか、走りに行こう!

 9月4日、うっかり、前日トレーニングを休んでしまったので、台風が直撃したにもかかわらず30分は走りたいという気持ちに駆られた。大学生のころであれば、「台風が来ると、ワイルドな気分になる」といって、所構わず走っていた。さすがにこの歳でリスク万ジメントを仕事にしていると、そんなのんきなことも言っていられない。どこで走るのが最もリスクが低いだろうか?

 

 そもそも台風のリスクはどこにあるだろう。前回のコラムでも触れたが、その発想は都会でも有効だ。強風による飛来物や落下物、そして増水、土砂崩れ。増水と土砂崩れは地形との対応が明確だから、容易に避けることができる。だが、強風による飛来物や落下物はどこでもありえる。そこで思いついたのが、大学のサッカー場。沢の中に作られたサッカー場は尾根に囲まれ風も弱いし、大学構内なので、危険な飛来物の確率はかなり低いと思われる。また、サッカー場には上部構造物はない(ナイター設備を除く)ので、落下物の心配も限りなく低い。サッカー場まで車で出かけて、走ることにした。まだ気温は高いので、雨が降っても低体温のリスクはない。

 

 それだけ気をつけていたのだが、事故に遭遇してしまった。ただし、他者の事故である。むしろ事故当事者にとっては、こんなに天気の悪い日に近くに走っている私がいたことは、幸運なことだったのかもしれない。サッカー場を走り始めて11分たったとき、体育館につながる坂道で「バン」という音がした。サッカー場から見ると原付が転倒している。最初人が見えなかったので、駐輪していた原付が倒れたのかと思ったが、近づいてみると人が倒れているのが見えた。動いてはいる。慌てて離れたところから声を掛けると、返事もする(これはファーストエイドとしてはよくない行為だということは、2週間後の山岳遭難の研修会で知った)。近づいて確認すると、痛々しい擦過傷はあるものの、意識は清明で、頭も打っていないという。

 

 周囲を見ると、長さ3mほどの枝が道路に横たわっている。彼女はこれに乗り上げたか、避けようとして転倒したようだ。普段なら、こんな障害物は道の上にはない。強風で落ちたのだろう。安全上管理された大学キャンパスといえども、自然の猛威の前には、リスクの管理程度は下がる。もし彼女がそのことに敏感で、もう少し慎重に運転していれば、事故は防げたかもしれない。擦過傷で済んだのは幸運だった。

 

 悪天候で自然のリスクが高まる時に、いつも幸運に恵まれるとは限らない。8月末に、トランスジャパンアルプスレースの余韻を感じに大浜海岸を走った日、台風が近づきづつあることが、波の荒さから感じられた。けれども、よもやその晩に、静岡大学の学生3人が波にさらわれ、命を落とすことになろうとは予想することもできなかった。

 

 翌日ニュースでその事を知った。浜辺に止められた自転車を、早朝散歩の人が見つけて警察に届けたのだ。残されたスマホには、花火をして遊ぶ3人の姿が映されていた。サンダルも残されていたという。彼らはひょっとすると、意図的に波打ち際に近づいたのかもしれない。自然によるリスクの変化に無自覚だったとしか思えない。その代償はあまりにも大きい。大学としても悔いが残る。14年前にも同じような事故で2名の学生を静岡の海岸で失っているのだ。

 

 4年で入れ替わる学生が教訓を受け継ぐのは難しい。大学も安全教育は新入生教育の一環に取り入れているが、「自分のこと化」して捉えてもらうことは難しい。大学生だから、校則や規制で海辺への立ち寄りも禁止することはできない。たとえできたとしても、一つ一つの具体的なリスクを禁止で対応することは、本質的な解決にならない。未知の場面でも行動の指針となるような、原理的な理解が求められる。それを生み出すのは、リスク管理を研究する大学人の役目であろう。

2018年

8月

19日

コラム135:台風のさなか、山にでかけよう! 

 7月最後の土曜日、静岡大学教育学部はオープンキャンパスの予定だった。だが、台風が静岡を直撃する予報が出されていたので、前日昼すぎには早々と中止を決めてしまった。予報を見ても、本格的に悪くなるのは午後だったので、午前中のみの開催は可能だと思っていた。しかし昨今、警報が出れば公共交通もすぐ止まってしまう。帰宅困難者が出て、ニュースにでもなれば、逆効果になってしまう。多大な準備をした教職員には残念なことだが、昨今のリスクマネジメント環境を鑑みると、仕方のないことだろう。遠くから、前日のうちに来ていた高校生もいたそうだから、なおさら残念。

 

 本来は講演や模擬授業をしている時間だったが、やることがなくなってしまった。研究室で仕事をしている合間にトイレにいったら、窓から南アルプス前衛の山々の緑が美しい。青空も覗く。「山行きてえなあ、こんな天気なのに。」

 

 そんな風景を見て思いついたのが表題のイメージトレーニング。さあ、これから台風が来るって時に山にでかけよう。「あほとちゃうか!?」言われそうだが、なぜあほなのだろうか。あぶないから?だが、もともと山は「あぶない」ものだ。どこがどうあぶないのだろうか?突き詰めて考えられるかどうかが、ほんとの「あほ」とリスクにタフな登山者を分ける。「海にでかけよう」では僕は行きたくないが、山なら行ってもいいと思う。ひょっとして海に詳しい人なら「海でも行っても大丈夫だよ。(ただし・・・)」というのかな?

 

 現場主義的意思決定論の「グル」ゲーリー・クラインは「プレモータル分析」という方法を、楽観主義から抜け出す方法として提唱している。プロジェクトなどでも、うまく進んだ場面ばかりを思い浮かべがちだが、「もし失敗したらどういう時か?」と考えるのがプレモータル分析の主旨である。プレとは事前の、モータルとは致命的な、という意味らしい。簡単に言えば、死亡前の死因分析ということなのだ。この視点から「台風のとき、山に行って死ぬとしたらどんな時か」を考えてみよう。

 

 そもそも山で死ぬ理由は13個しかない(警察庁の山岳遭難統計の分類による)。そのうち、雪崩、火山ガス、動物の襲撃は、台風のケースでは除外していいだろう。転倒も軽微なのでまあ除いてもいいだろう。疲労は病気と一緒でよい。これで死ぬべき理由は8個。滑落・転落もまとめられるので7個になった。悪天候はこの場合前提なので、残りは、落石(落下物)、鉄砲水、病気・疲労(低体温、下山できないことによる餓死)、滑落、道迷い、落雷、である。

 

 落石も鉄砲水も完全に地形に依存するので、100%リスクのない場所を見つけることが、できる。そうすればこの2要因のリスクは事実上ゼロにできる。ただし倒木等の落下物は場所を選ばないのでリスクはゼロにはならない。ゼロにするためには頭上に森のない場所を選ばないといけないので、悪天候への脆弱性が高まる。病気・疲労は回避できるだろうか?完全には回避できない。だが、台風でなくてもありえる病気を除けば、これらの進行は基本的にはゆっくりで、その兆候を感知することができる。だから、退却さえできれば、その影響をかなり低減することができる。滑落は台風でなくてもありえる。しかし雨量が多ければ滑落の可能性は高まる。しかし、これもルートを選べばかなり低減できる。一般的な登山ルートでは、滑落の危険があったとしても、非常に限られた場所だ。そこでは慎重な行動と撤退する勇気が求められるが、それは台風に限ったことではない。落雷についても、夏山に比較して台風中の落雷というのを聞いたことがないので、可能性としては少ないのだろう。だいたい普通の樹林帯にいれば、そのリスクはかなり低い。

 

 さあ、こんなに低いのだから、行かない理由はないだろう。もちろん、上の検討から分かるように、ルートについては慎重に選ぶ必要がある。それと、いつでも「退却する勇気」は欠かせない。

 

 実際に行ったとしたらかなり怖いだろう。だが、コントロールされたリスクの中で体験したその怖さは、よりシビアな条件下でリスクを下げることに大いに貢献するだろう。

2018年

6月

02日

コラム134:Control your destiny, or someone else will

 静岡大学の美術・デザイン専攻の学生内山晃輔さんが二科展の奨励賞を受賞した。Go or stop? Control your destiny, or someone else will.というのが主題で、昨年も同じモチーフでポスター大賞に入賞している。今回は子どもの滑り台にやはり信号機や警報器が乱雑に取り付けられている構図だが、昨年のポスター大賞受賞作は、見上げたアングルの鳥居に信号機が乱雑に取り付けられている。観る者の宗教観を問われるような構図だった。

 

 control=制御は、過酷な自然の中でのリスク管理に欠かせないキーワードだ。数年前、「死と隣り合わせ」に思える高所登山家にインタビューをしたり、彼らの書いた記事を分析したことがある。ほとんどの登山家が「危険を制御している」「制御できないリスクは嫌いだ」、さらに「リスクを制御することに喜びを感じる」と語っていた。

 

 リスクとは定義的に確率的な概念で、本来制御とは相容れない。しかし、自然の中で個人にふりかかるリスクの場合には、リスクを高める要因や兆候を感知することができる。たとえば精度の高まった天気予報は、かなりの程度リスクの変化を教えてくれる。もちろん、観天望気はその場でのリスクの変化を教えてくれる。そして感知してから重大な損害が発生するまでに主体的に制御可能であれば、個人的なリスクは一定程度まで制御することができる。自然の中で命を守るポイントはそこにある。

 

 制御可能なリスクがあるのは、自然の中だけではない。たとえば交通事故。交通法規を守って交通参加者になることは、交通事故のリスクを制御する基本である。だが、可能な制御はそれだけではない。リスクは不確実性の影響のことでもある。たとえ信号が青でも、そこには赤信号で車が突っ込んでくるというリスクがある。これはあり得るというレベルの話ではない。そのようなリスクを前提とする時、青信号に対して機械的にわたることは、他者が交通法規を守ってくれることに、いわば運命に命を預けたことになる。

 

 残念なことに、運命を他者に預けることの悲劇的な結果を時々、見聞きする。約1年前、私が所属する専攻を卒業した学生が交通事故に遭って亡くなった。まだ20代後半だった。彼と職場が同じだった知人が「自宅近くの横断歩道を渡っていた時に事故にあったらしい」と教えてくれた。ポスターのモチーフからすれば、彼はその時、自分の運命を他者の制御に委ねてしまったのだ。もちろん、交通法規を守っていれば十分自分の運命を制御できる世界が望ましい。その一方で、そうでないことが現実なのだ。小学生に限ってであるが、歩行中の事故の約7割が、歩行者に違反無し、というデータもある。

 

 私たちの生活は、様々な法規によって安全が守られている。意識するにしろしないにしろ、「だから安全だ」と考えることは、自分の運命を他者に委ねていることになる。このポスターはリスク研究者からすれば、そう語っているようにも見える。

 

このポスターは、たとえば、以下のURLで観ることができる。

https://shizuoka-univ-art-education.jimdo.com/2017/04/05/科展デザイン部において-4年生の内山晃輔君がポスター大賞を受賞/

2018年

3月

12日

コラム133:南極観測に地図は必要か?

 11月27日より、3月23日までの予定で、第59次南極地域観測隊に同行する機会を得た(注1)。南極観測隊といえば、過酷な自然環境の中での研究活動というのが思い浮かぶ。確かに越冬は零下40度にもなる環境と、ブリザード等の致命的な気象条件の中で孤立して約1年間過ごすという点で、現在でもその過酷さは変わらない。一方で、私が同行した夏隊は、12月20日から1月末まで、南極の夏に限られている。例外的な寒さに見舞われた日本に比べたら関東地方と比較しても暖かいくらいだった。それでも、ひとたび風が吹けば風速15m、20mはざらで、建築資材が飛んでくるような気象条件になる。ヘリが飛べずに現地で数日停滞という事態も珍しくなかった。風がない晴天なら、Tシャツでも過ごせるくらいだが、ひとたび風が吹くと、体感温度が下がり、体温維持にも気を遣う必要がでる。その環境の変動の激しさが南極の過酷さの一因でもある。

 

 訓練のときに、ハンドベアリングコンパスでの雪上での直進練習を行った。また夏の訓練ではここ10年ほどオリエンテーリングが行われている。過酷な自然環境の中にいくのだから、地図読み、ナヴィゲーションは必須なのだろうと思っていたが、現地に行ってみると意外とそうでもない。隊員にはコンパスが貸与されるが、そのコンパスを使った隊員は数えるほどだろう。しかも、使ったのは気象情報収集のときの風向を見るため、という隊員も少なくないはずだ。

 

 夏の南極では野外調査の際に利用できる移動手段はほぼヘリに限られる。砕氷艦しらせ、ないしは昭和基地からヘリで直接調査地に乗りつける。現地で歩く距離もせいぜい数百メートルだ。中には地質調査や国土地理院のように1km程度移動する観測チームもいるが、ほとんどは見える範囲でしか移動しない。おまけに現在ではほぼ全ての調査チームがGPSを持っており、地図読みができる必要性は全くないのだ。

 

 とは言え、甘く見ることはできない。同行した地理院の職員の方は短距離だからと地図もGPSも参照しなかったら一瞬道を見失いかけたという。南極には森はないので、見通しはよい。一方で露岩地域は氷食地形で地形が複雑である。地図読みも難しい。ブリザードはもちろんだが、視程が下がればロストポジションが発生しても不思議はない。

 

 こんな状況下で、隊員に如何にしてナヴィゲーションの重要さを気づいてもらい、また地図に親しんでもらうかというのは、意外とチャレンジなのかもしれない。地図の持つ、プランニング、コミュニケーション促進機能にも目を向ける必要がありそうだ。

 

注1:同行者とは、正式の隊員ではないが、自らの負担により隊員とほぼ同等の活動を許された参加者を指す。今回の同行に関して、本法人より研究助成を得ました。本法人を支えて下さる皆さんにお礼申し上げます。

2017年

9月

25日

コラム132:世界最難関ロンドンのタクシー運転手試験

 去る7月29日にNHKのEテレ(教育テレビ)地球ドラマチックでロンドンのタクシー運転手の試験の密着取材の様子が放送された。ロンドンのタクシー運転手は合格するまでに難しい試験を課されることは有名だが、私たち空間認知の研究者にとっては一層なじみの深い職業である。2014年にノーベル医学・生理学賞を受賞したのがロンドンカレッジユニバーシティーの神経生理学者オキーフの研究 

は、脳による空間認識のメカニズムの解明であった。最初はネズミの脳にある海馬に、特定の場所にいるときに活発に活動する神経細胞があることを発見し、それを場所細胞と名付けた。その後の研究で、場所が分かる背後には、どの向きに向いているかを感知する細胞や空間の距離を把握する細胞があること、あるいは離れた場所にある障害物からの方向と距離に応じて活動する境界ベクトル細胞が 

あるといったことが解明された。空間認知の基本的なメカニズムを明らかにする画期的な発見だった。

 

 オキーフ一門で風変わりな研究をする女性研究者がいた。彼女の名前はマクガイア。マクガイアはロンドンのタクシー運転手を対象に研究をしたのだが、MRIを使ってロンドンのタクシー運転手の海馬は大きく、しかも経験年数によってその容量は大きくなることを発見したのだ。同じロンドンの運転手でもバスの運転手では経験年数による海馬の容量の変化は見られなかった。かつては生後は脳の 

神経細胞は減少するばかりだと思われていたが、1990年後半から神経細胞が新生するという知見が確立しつつあった。相関研究ではあるが、特定の脳の使い方とその影響を示したという点でもこの結果は興味深い。自分で経路をプランニングすることが、海馬を活性化させ、それが海馬の神経細胞の新生に影響しているのだろう。

 

 この研究成果を読んだ時は、いくらなんでもカーナヴィなども発展した現代都市で、脳の変化が起きるほどの仕事なのだろうかという素朴な疑問が私にはあった。だが、この番組を見て、その疑問は氷解した。タクシー運転手の試験は4段階にも及ぶ厳しいもので、受験者は平均8000時間もの学習を行うという。ロンドンの街にある10万ものランドマークを憶え、またそのランドマーク間の経路を正しく再生できなくてはならない。面接試験で見事にいくつもの通りを通過して目的地までのルートを回答する受験生や、反対に頭が真っ白になって失敗する受験生の様子が、番組では描き出されていた。作業は高度な空間記憶と、それを検索し結びつける力を要求する。これだけの課題を解決できる脳に、なんらかの変化が起こっていても不思議はない。

 

 最終試験に残るのが3割という難関であり、合格すれば尊敬を受けるブラックキャブの運転手になれる。数年前に失業し、自立した生活への再起をかけた中年男性、下町で育ちで、けんかで学校を何度も追われて今はブラックキャブの整備士をしている男性、あるいは20年以上前に幸福になりたくてコソボからやってきた男性受験者、いずれも人生の再起を賭けて莫大な時間を受験のために費やして 

いる。失業後4年、見事試験に合格し、はじめてロンドンで客を乗せた男性運転手の様子が最後に映された。伝統によれば開業後最初のお客からは運賃を貰わないのだそうだ。そう告げる彼の誇らしげな様子が印象的だった。

2017年

8月

29日

コラム131:山のお約束

 ヨーロッパの登山国と言えばスイスやドイツが思い浮かぶだろう。スイスには世界から登山家が目指す山あるので当然の印象だが、登山の国民的広がりという点ではノルウェーも負けていない。登山をする人が人口のどの程度の割合を占めるかについての統計では、日本の登山人口は8-10%ということになっている。これは1年に1回以上登山・ハイキングをする人の割合である。15歳以上が対象なので、概ね800-1000万人という数になる。

 

 同様の統計(年に1回以上)でノルウェーはなんと90%が登山人口なのだ。少し古い統計だが、人口約400万人強のノルウェーにあって、登山連盟(正確にはトレッキング連盟と呼ぶべきであるが)の加盟数は20万人。20人に一人が加盟員なので、日本で言えば600万人近い会員がいることになる。連盟によって全国各地の登山ルートにマーキングや山小屋の整備がなされている。

 

 先日ノルウェーを訪れた時にも、山国ノルウェーらしさを感じさせる経験をした。五輪で有名になったリレハンメルの普通のお土産屋に寄った時のことだ。写真のような紙ナプキンがお土産に売っていたのだ。その国らしい風景や意匠の図柄を描くお土産用紙ナプキンは珍しくない。この紙ナプキンに書かれている「fjellvettreglene」は英訳すればNorwegian Mountain Code、つまりは山登りのための規範、という意味で、その9箇条が書かれているのだ。この「お約束」は英語にも訳されて、ウェブでも見ることができる(https://www.fjellforum.no/forums/topic/4416-the-norwegian-mountain-code-fjellvettreglene-in-norwegian/

 

 「よく準備して入山しよう」「地図とコンパスを使おう」などは日本にもそのまま当てはまる。ただし地図とコンパスの使い方については、文章末に示したように、ナヴィゲーションの中でどう使うべきかについてのより具体的な方法が指摘されている。そのほかの7項目の中でノルウェーらしいものと言えば、他の一般的な項目に並んで「体力を温存して、必要なら雪洞を作りなさい」くらいだろ 

う。山で自分の身を守るためにすべきことは世界のどこでもあまり変わらないということだ。

 

 個人的に興味深かったのは、「あなたのルートについての言葉を残しなさい」差し詰め日本なら「登山計画書を提出しましょう。」だが、それをより本質的な「ルートについての言葉を残す」と表現している点が注目に値する。もっとも昔はなかった「notification box(ルートについての記載書入れ箱)が小屋や山頂に設置されているところを見ると、本来あるべき山の習慣についての規範がノル 

ウェーでも崩れつつあるのかもしれない。

 

use map and compass(上述URL英語版より)

Always have and know how to use map and compass. Before departing, study the map and trace your route to gain a basis for a successful tour.  

Follow the map, even when weather and visibility are good, so you always know where you are. When visibility deteriorates, it can be difficult to determine your position. Read the map as you go and take note of points you can recognize. Rely on the compass. Use a transparent, watertight map case attached to your body so it cannot blow away. Take bearings between terrain points on the map that can guide you to your goal. Use the compass to stay on a bearing from a known point.

 

日本語訳

 地図とコンパスを常に持ち、そして使い方を知っておきましょう。出発前に地図を注意深く眺め、あなたのルートを地図上でたどることでトレッキング成功のための基礎を得ておきましょう。天候と視界がよい時でも地図上で場所を追い、いつでもどこにいるか分かるようにしておきましょう。もし視界が悪い時には、現在地を把握することは難しくなるかもしれません。進む時に地図を読み、認識 

可能なポイントを意識しておきましょう。コンパスを信じましょう。透明で耐水性のあるマップケースを使い、風で飛ばされないように身体に付けておきましょう。地点間では進行方向を把握することで、目標地点までそれによって誘導されるようにしましょう。そして既知の点からの進行方向から離れないようにコンパスを使いましょう。

 

 

「山のお約束」を書いたお土産用紙ナプキン

山頂に設置されたルート記載書入れ


2017年

5月

09日

コラム130:ゴールデンウィークは東京へ

 珍しく何の行事も入れていないゴールデンウィークオリエンテーリングの研修の準備で草津に行こうかとも思っていたのだが、わざわざ混んでいる時期に行楽地に出かけることもないだろう。ひょっとして東京なら空いている?ニュースウォッチ9の桑子アナも「東京は水色(平常時の人出より人出が少ない)」「最高は福井の80倍」と、行楽地の混雑情報を教えてくれた。

 

 明治時代の地形図に、オリエンテーリングのコースを組んで東京の城南地区を走る。目的地は今でも分かるはずの場所として大きな神社や仏閣、町歩き案内本に載っている史蹟や庚申塔などを選ぶ。明治初期には山手線も通っていなかったから、渋谷や池袋は狐や狸の出そうな農村だ。明治中期にはさすがにこのエリアは市街化されたが、そこから城南地区にかけては、里山と耕作地の田園が広がっ

ている。そんな風景を描写する明治期の地図を手にして目的地に向かって走ると、頭の中は明治の郊外の風景のイメージで満たされ、その風景の中にある特徴物を求めてナヴィゲーションしているうちに、次第に暗渠は「春の小川」に変わり、斜面緑地は武蔵野の雑木林に頭の中で変換されてしまう。

 

 明治31年作国木田独歩の「武蔵野」に「夕暮れに独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し」と描写したのは、さしづめ今のNHK放送センターのあたりであろう。渋谷周辺を散歩した独歩は、鳥の羽音、風のそよぐ音、叢の陰、林の奥にすだく虫の音、空車荷車が野路を横切る音、騎兵演習の斥候か、あるいは夫婦で遠乗りにきた外国人の馬の蹄が落葉をけ散らす音

を聞く。そんな風景が自分の頭の中にも知らず知らずのうちに蘇ってくる。

 

 古地図でのオリエンテーリング、ノスタルジアに浸れるだけではない。ナヴィゲーションスポーツのスキルの本質は、地図から現地と対応可能な必要最小限の情報を読み取ること、そして、本来は異なる情報量を持つ地図と現地を対応し、「ここだ!」と自分を納得させることにある。建物も道の多くの今とは異なる古地図では、もともと現地と対応できる情報は限られている。どの情報が利用でき

るかという視点で地図情報を読み取る。対応できる情報を風景の中から見つける。そのプロセスが地形や些細な傾斜の変化などに敏感にさせてくれる。ナヴィゲーションのトレーニングとしても得がたいチャンスなのだ。

 

 もう一日は、玉川上水の分水である品川用水を、武蔵境から大井町まで走った。電車で移動しても優に50分は越える距離である。25kmの距離を自分の足で走ってみると、江戸時代にこれだけの土木工事を成し遂げた技術力や財力、企画力が偲ばれる。ところどころに当時の水神や庚申塔、水車そのものはなくなっているが、その痕跡を示す立て看板などがあってあきない。

 

今年のゴールデンウィークは終わってしまったが、秋のシルバーウィークや来年のゴールデンウィークは、古地図を持って東京散策!はいかがだろう。ついでに村尾嘉陵の「東京近郊道しるべ」(江戸期の武家のお散歩日誌)や国木田独歩の「武蔵野」を読んでおくと、さらに頭が妄想モードになる。いつもよりちょっとばかりのんびりした東京で、お金、時間、エネルギーともに優しい田園散策体験が味わえる。

下北沢南部の北沢用水沿いにある森巌寺。山門の左にある石柱には、「東:あをやま(青山)、南:ゆうてんじ(祐天寺)、めくろふとう(目黒不動)」とある。

2017年

4月

08日

コラム129:那須岳雪崩遭難に思う

 前回のコラム「救助ヘリ有料化」の議決が埼玉県の議会でなされたその日に、栃木県の那須岳で悲惨な雪崩事故が起こった。雪崩による遭難は毎年10-20人程度が巻き込まれている(死亡数は不明)。従って、山岳遭難3000人の中では決して多い遭難ではないが、起こらない遭難でもない。しかし、今回の事故は前途有望な高校生を含む8人が一度の犠牲になった。しかも、課外活動である登山部が「春山研修」として県単位で行っていた講習会においての事故であっただけに衝撃は大きい。学校というある種特殊な組織の活動で発生した事故ではあるが、山のリスクという視点でこの事故が投げかけたものは、山や自然に親しむ私たちに多くの教訓を投げかけてくれる。

 

 第一に山に「絶対安全」はないという点。講習の指揮をとった顧問の先生は記者会見や新聞報道では「絶対安全」として事故にあったラッセル訓練を実施したということだが、管理されていない自然の中で、まして雪に覆われた時期には、どんな些細なことでも大事故につながる可能性があり、絶対の安全などないのだということ。関連して、顧問の先生はベテランだという報があったが、本当の山のベテランが「絶対安全」というのだろうかという疑問が個人的には残った。

 

 関連して、もしラッセル訓練が事故が起こった場所である尾根上の急傾斜地の直下の林のない場所であることを知りながら、安全だと考えていたのだとしたら、雪崩についての貴重な知見が全く生かされていないことになる。遭難の原因になる気象現象は、基本的に物理現象だから、発生要因は明らかだし、発生には不確実性があるとしても、知識があれば危険性をある程度は判断できる。山の危険に関する知識とその使い方についての根本的なところに課題があるのではないだろうか。

 

 第二に学校教育におけるリスクとのつきあい方である。部活動は生徒の自主性に任される部分の多い学校内での活動だが、実質的には顧問が深く関与している。加入は自由だが、一度入れば、どんなに不安があっても「今回は止めます」「今度の山行は興味がないので僕はいきません」とは言えないだろう。不安や乗り気でないのにリスクに晒されることは非常に辛いことだし、危機管理的にも問題だ。リスクがあるからこそ価値がある。これは高校生でも変わらないと思う。しかし、そこに強制や準強制があるとすれば、許容されるリスクはぐっと低いものである必要がある。そんなところに無頓着な学校教育の姿勢が「組み体操」の事故では社会から問われ、あっという間に組み体操全面禁止に等しい実態となってしまった。登山を文化として残そうと思うなら、強制力と許容されるリスクレベルについて、もっと議論がなければならない。

 

 一方で、これは学校教育に限った問題ではない。大人の自由に見える山登りでも「1年以上前から約束していた登山」に体調が悪いからという理由でキャンセルできるだろうか。あるいは山頂間近で高山病になった時、無理しても着いていくのではないか。リスクのある活動の中での「強制」の影響は、万が一事故が起こった時の関係者の心情に大きな影を落とす。

 

 最後に気になるのは「冬山原則禁止」の通達だ。高校生以下では冬山登山は文科省の通達で原則禁止となっている。それなのに県単位で雪山で講習が行われているというのもおかしな話だが、禁止だから「春山」と名付けてやっているというのが正直なところだろう。原則禁止の中でやろうとするからそういうことになる。春だから安心だとは思わなかっただろうが、冬の厳しさの中で敢えてやることに伴う緊張感、最大限の努力がどこかで失われていないだろうか。

 

 冬山や高校生登山への過剰な規制も気になる。そんな中で山岳県である長野県の教育長は「「登山は一つの文化。一切禁じることはあり得ない」と述べたという。教育の長に立つものとして慧眼である。

2017年

3月

27日

コラム128:山岳救助有料化に思う

 3月27日の埼玉県議会でヘリによる山岳救助の要する手数料を徴収する条例が可決されるという(毎日新聞掲載)。かつて、田中康夫長野県知事が山岳救助ヘリの有料化を提案していたが、「救急車が無料なのと整合性がとれない」といった公平論や「窮地にある人を救うのは当然」といった道義論に有効に回答することができず、実現しなかった。今回の条例では、飛行に必要な燃料費分であるいわば「実費」を徴収する、という形でこうした課題をクリアしたように見える。

 

 新聞記事に取り上げられた意見(もちろん新聞社の選好がかかっているので、社会的な意見分布とは異なるだろう)を見ると、反対意見が目立つ。私は、ヘリ有料化は基本的には賛成の立場で、これは毎日新聞にもとりあげてもらった。新聞記事は3行ほどのコメントであり、十分意を尽くせなかったこともある。そこで、ヘリ有料化に賛成の理由を少し紹介しておきたい。

 

 この条例の制定に賛成な理由は、それが登山者の責任についての格好の問題提起になるからである。山は本来、行政サービスによる安全化が及ばない高い空間である(またそのような空間を残すことには様々な意味がある)。だから、他者によって安全を確保されていない環境に自分の意志で入る人は、基本的にそこでの安全について自分で責任を採らなければならない。そうでなければ、山は安全の確保と引き替えに様々な規制を受ける場となってしまうだろう。

 

 一方で、未組織登山者による登山人口の急増により、こうした点を意識していない登山者が増えてしまった。山岳遭難の漸増傾向には、登山者自身の責任についての理解の欠如が大きいと考えられる。しかし、行政や山岳団体もそれに対して十分な啓発を提供できていない。それどころか、山で窮地に陥れば無制限に行政が助けてくれるかのような状況が作り出されている。

 

 今一度、山とはどのような環境か、そしてそのような環境に自らの意志で立ち入るとき、そこにどのような責任があるのかを登山者が意識しない限り、遭難は減少しない。登山者の意識形成と条例制定は必ずしも直結するものではないが、登山者に意識してもらうための行政が切れる数少ない有効なカードが、ヘリ有料化だと考える。

 

 これを期に、山とはどのような場で、なぜリスクがあるのか。そのリスクに対して誰がどのように責任を分担していくのか、といった根本的な論点整理につながるような議論が広がればと思う。

2017年

2月

28日

コラム127:脳の仕組みと方向感覚

 11月に開催された橘樹今昔物語の際(前々回コラム参照)、JR南武線の武蔵溝ノ口駅で降りて、バスで会場に向かった。バス停から降りて歩いている時、ふと大通り沿いにある敷地の広い古風な屋敷の脇を通る時に、「この屋敷は、1年前の多摩川今昔物語で通った!」という記憶が蘇った。

 

 多摩川今昔物語は対岸の二子玉川の会場をスタートにして行われた。ずっと明治期の地図で走っていたから、武蔵溝ノ口を通ったという記憶は片鱗も残っていなかった。この屋敷にCPがあったかも定かではないが、なぜか、大通りに出る手前に敷地の広い瀟洒な屋敷があり、「こんなところにこんな古めかしい屋敷があるのだ!」と、明治期の景観と関連づけて印象に残ったことは覚えていた。

 

 自分の中に地名の記憶は全くなかったし、この時のこともそれまで思い出すことはなかった。だが、位置関係、そして特徴的な景観の記憶が残っていて、それが今回別の視点から見た景観によって活性化されたのだろう。

 

 心理学では、こうした現象をプライミング(先行)刺激と呼ぶ。人間の記憶はコンピュータとは違い、脳の中の神経細胞が相互に刺激しあう結びつきの強さによって維持されている。その結びつきは多くの場合意識できない。だから、それまで意識もしなかったことが、突如なんらかの刺激によって思い出されることがある。「思い出した」という意識のあるのはまだいい方で、それが無意識のことすらある。たとえばS□□Pの□にアルファベットを入れて英単語を完成するという課題がある。事前にWASHという単語を読んだり聞いたりしていると、SOUPよりもSOAPを思い浮かべる可能性が高くなる。そして、しばしば本人はその影響を意識することすらできない。

 

 そのような脳の基本的メカニズムを考えると、方向感覚や定位の感覚もまた、こうした無意識による記憶に多くを依存しているのだろう。場所の特徴に興味をもったり、周囲の場所場所の位置関係に敏感になることが空間や場所の刺激に対する脳の中での結びつきを強める。それがある場所の風景を見たときに、「ここにいる!」という感覚につながるのかもしれない。武蔵溝ノ口での私の経験は、期せずして脳のメカニズムを自分に気づかせてくれた。

 

2016年

12月

07日

コラム126:データベースの威力

 日本スポーツ振興センターが、学校事故データベースというのを公開している。毎年の負傷・障害・死亡の統計と死亡・障害については簡単な記述がこれまでにも冊子として公開され、pdfやエクセルでもデータ提供がなされていたが、近年、死亡・障害については検索も可能なデータベースとなった。学校(幼稚園から高等専門学校)に至る通院を必要とした事故のほぼ全貌が分かるデータベースである。

http://www.jpnsport.go.jp/anzen/Tabid/822/Default.aspx

 

 「学校のリスクマネジメント」という授業で、これを使った実習を試みた。「データベースを使って興味のある事故について調べ、それがどのようにカテゴリー化できるか、またその背後にある要因は何で、対策として何が考えられるか。」これが思いの外興味深かった。事故は突き詰めていえば、人的要因(不適切な行動)と環境要因(ハザード)によって発生するが、事故内容やその状況によって、それらの具体的様相は異なる。学生の興味によって調べることで、5000件を越える雑多な事故の一部かもしれないが、重要な整理の見通しがたち、こちらも勉強になった。理論物理学には学生レベルで取り組める問題は少ないが物性分野ではいくらでも研究主題が転がっており、その中にはその後の大発見につながるようなテーマがある、というのと似ているかもしれない(これは私の認識なので、現状としてはそうではないかもしれませんが)。

 

 たとえば、特別活動中の事故といえば近年組み体操(運動会)が注目を集めているが、死亡事例で一番多いのは給食中で、過去11年間で21件である。もちろんこれらの中には突然死も一定数あるが、それ以外の3大原因としてはアレルギー、のどに詰まらせる、食中毒があり、前2者が比較的多い。こうした事実だけでも教員の見る目が変わる可能性がある。

 あるいは、課外活動の中でもっとも事故の多い野球の原因は①ボールの直撃、②そうでない事故に分けられるが、①では死亡事故は発生しておらず、②では熱中症による死亡、落雷、ふざけてヘッドロックを受けた生徒が死亡など多様なリスクが見て取れる。

 

 これは授業中ではないが、リスクを研究している指導院生がこんなことを調べた。近年大問題になって、この半年で大きく動いた組み体操(教育委員会によっては全面禁止である)は確かに発生件数が多いが、種目別に見ると、中学校では、むしろ準備・整理運動の方が事故が多いのだ。本来、運動由来のけがを防ぐための準備・整理運動でこれだけの事故が起こっているなんて、データを実際に見なければ想像だにできないだろう。しかも、組み体操なら止めれば済むが、準備・整理運動をやめることは難しいだろう。馳文科大臣は「組み体操は危険な状況になる可能性のある教育活動」(2016/2/10朝日新聞)と指摘したが、準備・整理運動はもっとリスクが高いかもしれない。リスクは多面的に見なければ、エネルギーの投入先を間違え、結果として別の大きなリスクを見逃してしまう可能性にもつながる。研究者が肝に銘じなければならない点だと痛感した。

 

2016年

11月

23日

コラム125:橘樹今昔物語

樹今昔物語

 私が古地図(明治期の迅速測図)での街巡りを始めたちょうどそのころ、古くからのオリエンテーリングの友人も古地図を使ったロゲイニングイベントをスタートさせた。名付けて「**今昔物語」。**の部分にはそのエリアの地名が入るのだが、「荏原」だったり、「橘樹」だったりと、古来の郡名が入ってノスタルジアを誘う。名称のとおり、当初は昔の地図(明治期の地形図)と現代の地図の両方が用意され、一般クラスは現代の地図でまわり、地図ヲタククラスは昔の地図でまわる設定になっていた。古地図なのだから、道路も建物も「でたらめ」に近い。それでギブアップして現代の地図を見ると、「一般クラスに格下げ」になる(自己申告である)。

 ところが、回を重ねるごとに、意外と古地図でもまわれることが分かってきた(コラム116など参照)。それ以上に古地図でまわるとその時代にタイムスリップしたような体験が楽しめることが浸透してきた。今回参加した橘樹今昔物語では、ほとんどの参加者は古地図だけで最後までまわってきたようだ。それはそうだ。何しろ原寸大の明治期テーマパークである。その楽しみを放棄して現代の地図を使う理由は見当たらない。もはや「昔物語」である。

 イベント後、両方の地図を初めて見た参加者の多くが口にする感想が、「こんな地図(現代の)じゃ、回れない、飽きる!」。現代の地図は建物と街路が一面に覆った住宅地になっている。街路をいちいちチェックしなければ迷ってしまいそうだ。地図から住宅地をイメージするだけでうんざりする。一方で、明治の地図は等高線で描かれた里山と近郷集落のみのシンプルな内容で、のどかな里山のイメージがふくらむ。イベント中、里山のトレイルの上にいる妄想に包まれる。走り終えた後は、「今日は5時間トレラン愉しんだ!」と本気で思えてしまうのだ。

 今回の「橘樹(たちばな)」は川崎市の北東部、多摩川にそった地域であり、多摩川の平地を望む丘陵地がイベントの舞台となった。宅地開発で大規模の地形が改変されているという印象があったが、高度経済成長期以前の比較的早い段階で小規模に開発されたためか、地形はほぼ残っている。実は古地図ロゲイニングにうってつけの場所だった。

 ポイントは平地を望んだ丘陵上の貝塚や古墳だったりする。もちろん古地図だからアプローチは地図情報だけでなく、風景の展開や知識などを駆使する。古代人ならどこに住みたいか、死後どこに葬られたいかと考えて近づくと、「やっぱりね」という場所にポイントはある。明治どころか縄文時代、古墳時代にもタイムスリップした5時間だった。

 

cp46は子母口貝塚

眺望良好、日当たりよし。貝塚は古代のタワーマンション。


2016年

8月

25日

コラム124:コンパスは飾りじゃない!

 2001年以来、読図講習で多くの方と接してきた。そこでよく言われる言葉が「コンパスの使い方がよく分からない。コンパスが使えるようになりたい。」ところが、よく聞いてみると、彼らの多くが身につけたがっているのは、ベースプレートを使って設定した方向にまっすぐ進む「直進」という技術なのだ。

 

 確かに直進はシルバコンパスを代表とするベースプレートコンパスだからできるテクニックだ。身につければ「コンパスが使える」って感じがとってもする。だが、日本の山野で登山者が直進を必要とする場面がどのくらいあるだろう。年間おそらく1000回を超えるコンパス参照機会がある私でも、直進をするのは年間で数回あればいい方だろう。シルバコンパスは林の中を自由に進むことのできる地形・植生のスカンジナビアで、精度の高いナヴィゲーションのための道具として生まれたのだ。

 

 持っている道具のスペックを最高に引き出すテクニックを身につけたいのは当然の欲求だとしても、その副作用として本来のコンパスの使い方が身につかないのでは本末転倒だ。実際、山岳遭難の40%を占める道迷い遭難の一定数はコンパスの基礎的な使い方を身につけていれば間違いなく防げたと思う。日本の遭難対策史の転機となった愛知大学山岳部の薬師岳遭難でさえ、コンパスの適切な使い方を知っていれば防げた可能性がある。それもシンプルなコンパスで。

 

 日本という環境に適したコンパスの使い方をまず身につける。それがシンプルに導かれるコンパスが必要だ!多くの方と接する中でそう考え、最適なコンパスとしてシルバ社のマイクロレーサーをしばらく使ってきたが、廃版になってしまった。特別に頼んで1ロット作ってもらったが、さすがにそれももうできない。もともと子どものオリエンテーリング学習用のマイクロレーサーを登山で使うと、不都合なこともいくつかあった。それらを改良して、このほどオリジナルコンパスを作成した。

 

【詳細URL http://www.o-ajari.com/compass/#cc-m-product-9116428870】

 

 

 頼りなく思えるかもしれない。しかし、日本の普通の山行で必要な機能は十分備えている。もともとベースプレートコンパスが、日本の通常の山行ではオーバースペックだったのだ。それは高性能のロードレーサーのようなもの。自転車を乗れない人がいきなりロードレーサーで練習はしないだろう。危険すぎる。まずはままちゃりで自転車の乗り方を覚え、自転車を漕ぐ気持ちよさを知ることでロードレーサーの真価も分かり、安全に乗ることができる。まずはこの「ままちゃり」でコンパスの必要場面とありがたさを実感していただきたい。ベースプレートコンパスを買うのは、それからでも遅くない。いや、むしろその時こそがベースプレートコンパスを十全に使える契機なのだ。

2016年

8月

17日

コラム123:太陽が西から上がって東に向かう?

 太陽が西から上がって東に向かっているような気がしてならない。先日、ロゲイニングの世界選手権でオーストラリアにいった時に感じたことだ。だいぶ前にオリエンテーリングの現役選手だった時に南半球にいった時もそんな感じがしていたことを思い出した。もちろん、南半球でも地球の自転の方向は変わらないから、太陽は東から出て西に沈むはず。どうしてそんなふうに思ってしまったのだろう。

 

 考えてみて気づいたのは、太陽が正午に北を通るということだ。赤道より南にある南半球では、太陽は正午に南中ではなく北中する。だから日当たり良好なのは北向きの部屋なのである。だが、北半球の生活に慣れた頭が、無意識のうちに太陽が昼間に通るところを南と位置づける。それを基準にして他の方角を割り当てるから、東が西に、西が東に思えてしまうのだろう。考えないと気づかないくらいだから、「昼に太陽があるのが南」というのは相当強力な枠組みである。しかも、自分で太陽の方向を確認して方角を意識しているつもりもまったくないから、無意識のうちに南の決定とそれによる他の方角の割り当てが行われている。

 

 他の人が同じように感じてしまうかどうかは知らないが、これはおそらく私が方向感覚がいい故の副作用なのだろう。方向感覚がよいとは、方向に関する情報を処理し、それによって場所が変わったり、向いている向きが変わっても方向を適切に見極める能力だから、それは無意識の処理に多くを負っているはずだ。その結果が、獲得した枠組みとは違う場所で有効ではないのに無意識に使われるために、奇妙な感覚に見舞われるのだろう。

 

 今回のロゲイニングで会場となったキャンプ場は南にゴルジュが抜けているが、そのゴルジュは今以て、キャンプ場から北に向かっているような気がしてならない。そしてスタート後はその反対に向かったのだから、北に向かったのだが、今でも頭の中では南に向かったように記憶している。大会の前日に泊まった街も南からアクセスしたのだが、気持ちの中では逆向きになっていた。地図もなしに街で買い物に歩いた時には、頭の中の方向感覚と実際の方向が干渉して、あやうく反対方向に進むところだった。

 

 南半球で暮らす人は日本に来たらどんな感覚になるのだろう。聞いてみたいものだ。

 

 

ロゲイニング世界選手権。スタート後北に走り出す人たち。影が後ろに伸びているので、北半球の「常識」では南向きのはずなのだが。

2016年

7月

16日

コラム122:人事を尽くして天命を待つ

 ノースフェイスさんから2016年の春から夏のカタログをいただいた。これが滅法かっこいい。黒い表紙にノースのロゴ。しかし、感心するべきはそこではない。サポートしているアウトドアアスリートたちからのインタビュー記事が添えられているのだが、これがデザイン以上に印象的なのだ。


 アルパインクライマーの馬目裕仁さんのインタビューが掲載されていた。高所登山に取り組むクライマーの中にはガイドを生業にしている人がいる。しかし、自分自身の挑戦である登山とガイド登山とはリスクに対する意識という点でも大きな違いがある。馬目さんは、その両立はできないということで、自ら「木こり」を生業にしているという。


 「自分自身では制御できない不確定要素、それに挑戦することへのあこがれです」と、言葉が引用されている。これは分かる。アルパインクライマーの多くが同じようなことを言う。不確定要素への挑戦は高所登山の本質といってよい。しかし、「不確定要素」に対する態度は、一般の人とはかなり 違っている。「かなり雪がひどくて、これは命に関わると判断して初日で敗退を決めた」という言葉も引用されている。「制御できない不確定要素」といいつつ、それを意識すると同時に、どう対応するかという点ではかなり保守的なのだ。


 さらにしびれるのが、よく言われる「退く勇気」に対する考え方だ。「合理的に考える力があれば、敗退は難しくない」と、「退く勇気」を否定する。「先に進むかどうかは、本当に駆け引きが難しい。ただ、僕はそこから敗退できるかってことは常に考えている。」やっぱり大きな枠組みでは自分でコントロールできる範囲がどこまでかを常に意識しているのだ。

 

 最後に名言で締めくくられる。「登頂はいつでもあきらめられるけど、帰ることを諦めるわけにはいかないですから。」もちろん、高いリスクに挑戦する冒険家たちで「諦めた」人はいないだろう。だが、彼の言葉には「結果として諦めるようになる行為」も含めてコントロールしていこうという強い意思が感じられる。

 

 ライターの名前は出ていなかったが、一見した矛盾のある馬目さんの考えを、文章からちゃんとトレースできるほどに書いたライターもファインプレーだ。すぐれた実践家の一言も、正確な書き手がなければ伝わらない。こんなライターがもっともっと育てば、山のリスクに対する登山者の意識も変 わるはず。


 諦めという言葉で思い出したことがある。最近見た新聞の投稿記事で「大災害に対してはどこかで諦めが必要だが、それは何も考えずになるようになれ的な諦めではなく、覚悟のあるあきらめだ」(佐伯啓思(2016.5.5朝日新聞)という主張が出ていた。心理学で数多くの「不確実性」に関する研究がおこなわれているが、その不確実性は実は性質のことなる二つの要素からなる。一つは知識不足による不確実さであり、もう一つは確率事象による不確実さだ。たとえばバスの時刻表を知らなければバスがいつ来るかは不確実だ。これは前者である。しかしいくら時刻表に精通しても、バスの来る時刻には不確実さが残る。交通状況、その日の天気・・・。これは確率的な不確実性で、知識だけでは解決しない。前者に対しては常に努力が必要だ が、同時に後者に対する諦観も必要だ。これは大震災でもリスクの高い活動でも同じだ。

 

 高所登山家の言葉は、「人事を尽くして天命を待つ」心構えを示してくれる。

2016年

6月

07日

コラム121:今、山のグレーディングが熱い!

 6月11日に日本山岳協会の指導委員会に依頼されて、山のグレーディングについて話をすることになった。グレーディングの開発者ではないが、熱烈な支援者として、自分自身も勉強してみることにした。そして勉強だけでなく、他の国に同様のシステムと比較したり、実際の道迷いのプロセスと対 比させてその妥当性を考えるなど、ちょっと研究者っぽいこともしてみた。

 

 山のグレーディングは初めてその存在を知った時には、正直衝撃を受けた。登山や山歩きが盛んな国では登山道をランク分けしているのは知っていたが、せいぜい3-5段階だ。それがいきなり体力10段階×技術5段階の50マトリクスによるグレード化。精緻な日本の物作りの原点を見るかのような緻密さではないか。「山のグレーディングは、新幹線に並んで日本が世界に誇る安全システム」この評価だってあながち誇張ではない。

 

 体力度については、鹿屋体育大学の山本先生の長年にわたる研究成果に基づくものだけに、運動生理学の研究と実践に基づいたかなり信頼性と妥当性の高い指標だと考えられる。おまけに、山本先生はマイペース登高能力テストという、登山者側の評価指標まで作ってしまった。グレードによって登山道で必要な体力が分かる。そしてマイペース登高能力テストによって自分の体力が対応する形で分かるのだ。ただ両者には若干のずれがある。テストの方は、無理なく上れるエネルギー消費率(メッツ)が示されているのに対して、グレーディングの体力度は消費率と時間との積算である。このあたりは十分に啓発が必要なところだろう。

 

 一方で技術度の指標にはまだ改善の余地があるように思う。専門である道迷いについて考えてみると、グレーディングに示される(地図読み能力が)「必要」と「望ましい」の違いが曖昧である。またランクBの「わかりにくい」とC「道標不十分」、D「道標限定的」の区分もわかりにくい。たぶん道迷いのプロセスと関連づけ、「道間違い」→「(ほんとうの意味での道(上での)迷い」→「ルート(道)はずし」に対応するスキルと位置づけるとすっきりするだろう。

 

 「遭難減少のための安全システム」と考えれば、さらに考えなければならない点がある。登山者に活用されるほどにシンプルか、全国に広げる上で信頼性(どこでも同じに評価されるか)は十分か、自己責任やパターナリズムとの整理など、解決すべき論点は多い。先日読図講習で参加者11人に聞いたら、知っている人は0人だった。類似の報告はほかでも聞く。登山者への周知も課題だが、活用しようというモティベーション向上も鍵である。

 

 課題は多いが、安全システムの中核になりえる資質を持ったグレーディングだからこそ、建設的な論点が多く出てくるのだ。そう考えると、指導委員会で話題提供した後、登山を支える指導員たちと議論できるのが楽しみに思える。

NPO法人Map, Navigation and Orienteering Promotion

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